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1. 夏
「はあ…疲れた。」
ぼそっと呟いた独り言は残業終わりの夜空に虚しく響き渡る。
ジーッとよくわからない虫の声と風が葉を揺らす音、たまに通るバイクのエンジン音しか聞こえないこの大都会に埋もれた小さな公園のベンチに座って早1時間。
何やってんだろ、ほんと。
先程コンビニで買い込んできた3本の缶ビールも無くなりかけている。
「はあ…」
またため息をこぼし、背もたれに体を預けて空を見上げると、よく晴れた夜空にはまばらに星が瞬いていた。視力だけは良いんだよね。見たくないものまで見てしまうこともあるけど。
何も考えたくなくてカバンから取り出したイヤホンを耳に挿す。好きなアーティストの最新曲であるR&Bを再生し、ゆったりとしたビートに指で乗って目をつむったまま歌う。
ロマンチックな歌詞はくすぐったいけど音が良いからあまり気にならない。作曲した彼は天才だ。
ああ、こんな素敵な彼氏の一人や二人いたらこうして公園で酔っ払うことも、熱唱することも無くなるんだろうな。
一曲歌いきって虚しくなったところで目を開けると、黒マスクに黒のキャップを目深にかぶった男がコンビニの袋を手に私の目の前で棒立ちしていた。
まあまあ近い距離に驚きと恐怖しかなく、イヤホンを外しながら携帯を握りしめる。
「…な、なんですか?」
「いや、それ俺のセリフだわ。」
「は?」
意味がわからなくてぽかんとしていたらその人は邪魔、とだけ呟いて私の隣に座った。
私なんて存在しないかのように彼は自然と袋の中から缶ビールを取り出し、爽やかな音を立ててプルタブを引いた。
あら、お仲間かしら。
「この公園、いいですよね。」
「あんたいつまでここにいんの。」
「さあ。帰りたくなくて。」
「そう。」
本当に興味が無いのだろう。そう、とだけ返してくれた彼はまた缶に口をつけた。
マスクをずらして携帯を見ながらビールを飲む姿をよく見るとイケメンだった。
あれ、どこかで見たことあるような…無いか。気のせいだな。疲れと眠気から目が霞む。
私も手に持っていた缶を傾けるけど、中身は無くなってしまったようだ。ため息と共に握りつぶして袋に放り込む。
「お、来たか。」
少し上がった声色にちらりと横目で見てみると、彼はしゃがみこんでうりうりと子猫を撫で回していた。
「猫だ…」
可愛さのあまり後ろから覗きこむけど私の声など聞こえていないようで、袋の中にあった猫缶を開けてその子の前に置いた。
…なんだ、怖い人だと思ってたけど優しいところもあるんじゃない。
ふふっと笑ってその光景を眺めていたら振り返った彼に睨まれた。前言撤回。
「こいつは俺が見つけたんだからな。」
「え、なに、私がその子持って帰るとでも?」
「違うの?」
「まさか。うちペット禁止だし。ね、触ってもいい?」
酔っ払いとは怖いものである。子猫1匹で先程会ったばかりの赤の他人とこんなにも盛り上がれるのだから。
「名前は?」
「ねこ。」
「それはあんまりじゃない?ネーミングセンスゼロね。可哀想。」
「じゃあ何。」
「んー…ハチワレだからハチ。」
「…あんたに言われたくないね。」
顔を合わせて笑ったらふと我に帰ったのか、彼が気まずそうに咳払いした。
「…名前は?」
「だから、ハチ。」
「そうじゃなくて、あんたの。」
「私?夏…です。あなたは?」
「……りょうた。」
「なに、今の間は。」
なんでも、と俯いた彼はまたマスクでしっかり顔を覆って立ち上がった。足元のハチはにゃあと鳴いて彼の足元に擦り寄る。
「また明日も来る?」
「んー、どうだろ。残業次第。」
「10時ね。」
「人の話聞いてた?」
「なんか分かんないけど、あんたとならいい友達になれそうな気がする。」
「何それ。ていうかあんたじゃなくて、」
「夏、でしょ?」
不思議と心臓が音を立てる。
久しぶりに誰かに名前を呼ばれて、耳に心地良いと感じた。
狼狽えていると私に背を向けた彼は振り返ることなく公園を出て行った。
「何あれ……」
主人を見失ったハチはまたどこかへ走って行ってしまった。取り残された私はただ棒立ちするのだった。
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