憂鬱とシフォンケーキ

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  「別れ話しなきゃなんないの。彼氏でもない男にだよ?」  唐突に、そんな言葉を思い出す。見下ろした先の春臣くんのうんざり顔が高岡さんのそれによく似ていたから。  ゼミが同じというだけで彼女と親しいわけじゃないけれど、友人相手に大きな声で話しているものだから、つい聞き耳を立ててしまった。  別れ話というデリケートなイベントが高岡さんにとってはただの面倒ごとでしかないというのが表情からうかがえた。  案外そういうものなのだろうか、恋愛って。  などと考えていたら、いつの間にか行列の先頭になっていた。  目当ての整理券を受け取れと、隣にいた春臣くんが肘でつついてくる。まっすぐな黒髪には天使の輪がつやつやと光っていた。 「今から三時間後に引き換えられますよ」  券をくれたお姉さんが微笑む。  ――それなのに、直後、私の手にはちょうど今引き換え時間をむかえた整理券が握られていた。    ◇    春臣くんのママからおつかいを頼まれたのはお手製のクッキー五枚目に手を伸ばしたときだった。 「先生すみません。今日はもう上がっていただいていいかしら。お給金はもちろんいつもと同じだけお支払いしますから」 「構いませんが……どうされました?」  薄く化粧した春臣ママが顔を覗かせ、私は神妙な顔をしながらそっと手を引っ込めた。  仕事に来てお菓子をばくばく食べているところを見られるのはさすがに恥ずかしい。  その様子を見ていた春臣くんが鼻で笑う。  わかってるよ、取り繕っても意味ないって!  私は登校拒否している九歳の彼の家庭教師――というより話し相手としてここに来ている。 「急に来客の予定が……。あ、春臣、駅までいってお茶請け買ってきてくれない?」  聞けばお客さんには駅の構内で売っているシフォンケーキを出したいそうだ。  テレビで何度も取り上げられたことのある有名店のもので、並んで整理券をもらわないと買えない。 「私、一緒に行きますよ!」  春臣くんひとりじゃ危ないですし、なんて立派なことを言いつつ、もしかしたら試食の一切れでももらえるかも、なんて期待する。 「一緒に行ってやらんこともない」  生意気な口をきいてこってり絞られ、頬を膨らませる春臣くんと一緒に家を出た。    駅に入れば少しは涼しいかと思ったけれどそんなことはなくて、ただ人の熱気のぶん、湿度だけが増したようだった。  ブラウスの襟ぐりをぱたぱたとあおぎつつ、まわりに目を走らせる。  早く引換券をもらってどこかに入りたい。店内ならきっと涼しいはずだ。  どこかでお茶でもしてきてください、と春臣ママから少し多めにお金を預かっている。  もちろん断った。断ったが、強引にお札を握らされたのだ。  決して頭に新作のフラペチーノがちらついたわけじゃなくて。  春臣くんは慣れた足取りでさっさとシフォンケーキの整理券をもらう列に並ぶ。押し黙ってうつむく顔はどこか憂鬱そうだった。  前には10組程度同じように券を求めるお客さんがいる。  そして、私たちの番がきたのだ。 「お待たせしました」  すぐに券をもらえると思って伸ばした手を、受付のお姉さんがひっくり返す。  あれ? と思う間もなく、手の甲にライトが当てられた。 「これ、なんですか?」 「ごめんなさい、スタンプが押してないか確認したんです」 「スタンプ?」 「特殊なインクを使ったスタンプなんですよ」  お姉さんは首からぶら下げていた小さな筒を私の甲に押し当てた。  肌になにかの模様らしき凹凸は感じたけれど、押されたそこには何も写っていない。 「こうすると見えるんです」  さっきのライトを当てると、今度は蛍光グリーンのお店のロゴが浮かび上がった。 「お一人様一日一個限定なんです。こうでもしないと転売が多くって……」  お姉さんが申し訳なさそうに眉を下げる。 「大変ですね」 「こいつはそんな頭回らないので安心してください」  春臣くんが横から余計な口を出す。  そこは「転売なんてする悪人じゃないので」とかでいいんじゃないかな?
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