憂鬱とシフォンケーキ

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「今から三時間後かあ……せっかくだしお茶していこうね」 「うん」  春臣くんは素直に頷いた。  列から離れて券の印字を見ていた、そのとき――。 「あぶない!!」 「え……うわっ」  春臣くんの鋭い声に反応する間もなく、ぼんやりしていた私は後ろからの衝撃で膝をついていた。  誰かにぶつかられた。そう気づいたのは、前方に犯人らしき人が駆けていったからだ。  怒りや痛みよりも、突然のことにただただ唖然としてしまう。 「大丈夫か? 立てるか?」  珍しく心配そうな春臣くんが顔を覗き込んでくる。  心配させるわけにはいかない。私の中の年上モードが急にオンになってきびきびと立ち上がった――はずだった。 「うんっ、立てる……っ」  膝がずきずきと痛んで今度はお尻をついてへたり込む。床がタイル張りだったから、その角で少しだけ切ったようだった。 「急に立つからだよ、ばか」  悪態をつきつつ春臣くんがリュックからウェットティッシュを取り出す。沁みないノンアルコールタイプなのがありがたい。  というか私よりよほどエチケットがちゃんとしている。  私は駅前で配られているポケットティッシュくらいしか持っていないというのに。 「ありがとうね」 「あのくそ男……ころす……」  殺気だった空気をまとって、今度は血の止まった傷口に絆創膏を貼ってくれている。いたれりつくせりだった。  私はといえば、春臣くんの一言でさっきぶつかってきたのがそういえば男の人だったことにをおぼろげに思い出していた。 「……あ、整理券!!」  気づけば券が手の中にない。慌てて周りを見回せば、近くに白い紙片が落ちているのを見つけた。 「良かったあ。盗まれちゃったかと思った」  券に視線を落として、異変に気づいた。印字された引き換え時刻はちょうど今の時間だったのだ。 「え、えっ。なんで!?」 「落ち着けよ。立てんの? スタッフ呼んだほうがいい?」  へたり込んでいる大学生が小学生に介抱されている姿は少なからず目を引くようで、周りに意識を向けると、ずいぶん視線を集めていることに気がついた。  私は真っ赤になりながら慌てて立ちあがり、拾った整理券を春臣くんに見せた。 「これ、私のじゃないの」 「ほんとだ。――じゃ、コーヒーでも飲んで帰るか」  興味がなさそうにつぶやくと歩きはじめてしまう。 「な、なんでそうなるの!? おつかいだよ?」 「別に買っていかなくてもいいよ」 「そんなわけにいかないよ!」  いつも家庭教師とはいえない仕事ぶりなうえ、毎度デザートをごちそうになっているのに。もらったお小遣いでお茶だけ飲んで帰るなどできるわけがない。 「さっきのやつが持って行ったな」 「ぶつかった人が?」  確かに転ぶ前は紙切れなんて落ちていなかった。 「あの男の人が落としたものを取り違えたってこと?」  男が去って行った方に視線を向けるけれど、市内で一番大きな駅だ。もちろん人並みのなかにその姿を見つけることはできない。  それでも探さないと。一歩踏み出した私の服の端を春臣くんが掴む。 「やめとけ。見つからねえよ。泥棒がその辺をうろうろしてないって」 「泥棒……え、私の整理券って盗まれたの?」  春臣くんがこくりと頷く。 「あの男、並んでるときからこっちをちらちら見てた。最初は待ち合わせかなって思ったけど、なんか怪しくて」 「でも、じゃあ……なんでわざわざ私の引換券を?」 「千咲を狙ったのは、お前がダントツとろそうだからだろう」 「あ、うん……」  なんとも否定しようがない。 「引き換え時間が遅い券を持って行ったのは……」  そこで春臣くんは言葉に詰まり、目を伏せた。長いまつげが柔らかそうな白い頬に影を落とすのを、私はじっと見つめた。 「わからん。とりあえずどっか入ろう」  拍子抜けしつつ、私は小さな後ろ姿についていく。
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