・鏃【やじり】

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・鏃【やじり】

 初めて彼女を目にしたのは、潮風を遮る林に首ごと落ちる鮮紅の花が灯る海辺だった。沈みかけの陽がもたらす艶やかな朱にすべてが染まっていた。枯れ草が風にざわついて、轟く波濤が重なった。渦を巻き、砕け、散じた音すら呑んでいく潮騒といううねりに、僕は沈んでいるしかなかった。  海辺に咲き誇る鮮紅を楽しむために、僕は家族で海辺に遊びに来ていた。汀に点々と打ち上げられている、色とりどりの海草や波に揉まれた硝子片などに惹かれていくうちに、僕はここに辿り着いていた。  山より流れてくる淡水と打ち寄せる海水の合流点に、僕はいた。汽水のゆらめく河口の岸には、茂っていた頃そのままの佇まいで、背の高い草が枯れていた。乾き、脆くなり、折れ崩れている、細い葉と茎の層の底で角のとれた石ころの隙間に落ちていたそれを、僕は拾った。 「呼ばれでもしたか?」  貝殻のような白い欠片を拾う僕への問いかけが、初めて聞いた彼女の声だった。  彼女は忽然とあらわれた。灰色の日傘をさして、僕の傍らに立っていた。曖昧な記憶のなかにあっては、その頃の僕は学校に通っていたかどうかもあやしいのだけれど、十代半ばほどの少女の容姿をしている彼女を見上げたことだけは覚えている。夕陽のもたらす朱が、青と黄金の綯い交ぜへと移ろっていく。夜を帯びはじめた色彩を重ねられても、彼女の纏う白は鮮やかだった。 僕を呼ぶ姉の声が聞こえた。そちらに顔を向け、返事をしてから眼を戻すと、誰もいなかった。  それから幾度も季節は廻った。季節が一巡する度に海辺の樹木群は鮮紅の首を落とした。数ヶ月や数年といった間を空けて、庭先に池のある家の前で、公園の噴水の傍らで、用水路にかかった橋の上で、僕は彼女と遭遇した。日中であれ夜であれ、彼女は灰色の日傘をさしていた。彼女はいつも同じかたちで、前触れもなくあらわれ、同じことを聞いてきた。 「あいつ、何か喋ったか?」  そう問われる度に僕は首を横に振った。一人暮らしを始めた僕の家にあらわれた時もそうだった。帰宅した僕を誰もいないはずの家で彼女が待っていた。玄関の鍵はかかっていたはずだった。 「あいつ、何か喋ったか?」  そう問われた僕は首を横に振った。繰り返される問答の変わらない遣り取りに申し訳なさを覚える。だけど、再会を約束するそれが、すこしだけ嬉しかった。望むこたえを得られなかった彼女が去っていく。呼びとめるための彼女の名前を、僕は知らない。  相手の名も知らず、会おうとしたところであちらから姿をあらわすことを待つしかない。 いつしか僕は、彼女の来訪を心待ちにするようになっていた。  僕の歩調に合わせて、熊よけの鈴が鳴る。  長袖に覆われた肌を鋭い陽射しが刺してくる。笹が地を埋め尽くしている。陽の通るよう手入れされている山は、整然としていて、明るい。 登山道は笹原を伸びていく。  この登山における僕の目的は、とある石だ。とはいえ、来月実施されるフィールドワークの下見という名目を掲げて、僕の人生の行く末を気にかけてくれる親戚の集まりから逃れる口実にしたということも、否定はできない。  目的地はまだまだ上だ。  うねりながら吹き抜ける風が笹の海を掻き混ぜていく。折り返すことを繰り返しながら、道は山頂へとつながっていく。レインコートと金平糖の詰まった背の荷では、括り付けられた鈴が揺れている。  幾度かの折り返しを経たところで、視界が拓けた。  晴れた空がどこまでも広がっていた。眼下には艶やかな緑の山々が連なっていた。  山頂まではまだ登らなければならない。見晴らしのいいこのあたりで休憩することにする。  地を這う樹根に腰掛けて、水筒の蓋を開ける。この樹の先にあるのは、一歩を踏み出しただけで転げ落ちていくことのできそうな急斜面だ。冷たさを口にふくみながら夏山の群れを眺めていると、濃緑の起伏のなかに輝くものがあった。 「水面かな」  このあたりに遠目にもとらえられるような湖沼などあっただろうか。ゆらめかない白銀として陽を撥ねつけているそこは、濃緑に浮いた雲海のようでもあり、広大な氷面のようでもあった。そこには色とりどりの石が散らばっていた。目を凝らしていると、石ころと見えていたものは花だった。四季の華やかさを掻き集めた氷上の庭が、そこにはあった。広がりゆく筒の端をあでやかに波打たせている赤い花が、葉の茂る低木を燃やすように、長い蕊を揺らしていた。細枝を撓めて連なる金色の花は、滝の白糸に灯った可憐な綿毛のようだった。地には、瀟洒な千重咲きの大輪の花が、純白に濃緋にと咲き誇っている。黄金の蕊と、幾重もの花びらでそれを包みこんでいる、大輪の鮮麗な花。層をもって球を成すあの花が石であるのなら、それを見つけたことで、僕の目的は達成されたことになる。  鮮やかな彩りのなかに、くすんだ点があった。咲き乱れる花に埋もれるようにして、灰色の日傘をさす彼女がいた。白魚のような指が活き葉のついた小枝をつまんでいる。彼女は膝を折り、小枝を氷面に突き刺した。小枝は幹へと変じながら背を伸ばしていく。方々に分かれていく枝に艶やかな濃緑が芽吹き、蕾がつき、花が開く。そこに咲いた鮮紅は、彼女と出会った海辺に灯っていたそれと同じ花だ。  こんなことがあるはずはない。あるはずはないのだけれど、あることにすることができれば、そこには彼女がいる。  僕は身を乗り出していた。極彩に湧いた灰色へと手を伸ばせば、彼女をとらえられるかもしれなかった。靴裏で小石の擦れる音がする。身体の均衡が崩れる。踏み締めるべき足場を失くしたのだから、立っていられるはずはない。僕は斜面を転げ落ちていく。  そこは青で満たされていた。黒から滲んだ青がすべてを抱いていた。  水泡の連なりが昇っていく。どこまで昇っていっても泡は水面へ辿り着けない。  おそらく、ここは水底なのだ。  ひしゃげた柱がゆらめく藻に包まれている。水塊に圧されて潰れたのか、木造の家屋であったらしい骨組みが散らばっている。その並びは集落のようだ。各所から流れ着いた家々が、寄せ集められて、堆積しているのだろうか。  細かな黄金のきらめきが、漠とした青に瞬いた。  糸束のようなゆらめく黒が眼前を塞いだ。うねる黒糸の隙間から、ふたつの黒い円形が僕の目を覗きこんでいた。黒の双眸のまわりは漂白した骨のように白かった。白から剥がれた、ちいさく薄い花びらのようなものが、ひらめく毎に黄金のきらめきを撒き、水泡と戯れながら昇っていく。煮詰めた夜の如き黒に潰された水底にて瞬くそれは、どうやら鱗であるようだった。  水泡と黄金を生じさせているそれは、水底たる茫漠に蕩けかけた、あおぐろい塊だった。金色の花びらを撒いているそれが、僕の前に降りてくる。 「そなた、ここのものではないな。その顔では、何が起こったのか、解してなどいないのだろう。そなたもわれも、偶々ここに流れ着いてしまっただけだ。どこにいたとて、もとより水の通い路はつながっている。さほど驚くようなことでもない」  答えらしきことばを与えられたけれど、何が起こっているのかなど、さっぱりわからない。 「さかな、とでも」  あおぐろいそれが、僕に呼び名を与えた。ためしに問いを投げてみる。 「水底に散乱している、これらは?」 「これらは、かつて、生きていくためにひとがつくり、維持していたもの。それらのうちの、目に見え、触れることができるものの名残だ。沈んだとも沈められたともいえるものだ。停められたとも埋められたともいえるものだ」 「どうして」 「脅かされるのは、厭なのだろう。奪われるのは、厭なのだろう。さびしいのは、ひもじいのは、厭なのだろう。そのようではないということを、もとめたからかもしれない。そうならないようにと足掻き、そこから抜け出したいと、こいねがったからかもしれない。なにものがそう望んだのか、それすらも蕩け果てて、水底に沈んだのだろうが」  魚の眼が僕をとらえた。 「そなたはこれらをしらないのだろう。それとも忘れることにしたのか。どちらでも同じことか」  こたえられないでいると、魚は僕に背を向けた。 「ついてこい」  泳ぎ出した魚からこぼれる黄金の瞬きだけが、僕にその進路を告げている。  水底は藻にくるまれた小石に埋め尽くされていた。家屋であったものの残骸を左右に、道のような拓けた一筋を、魚は泳いでいく。やがて魚は道を逸れ、崩れかけた柵の囲う軒先に留まった。 「まだ、そなたは水に融けるべきではない。そうであるはずなのだが、どうも、そなたはここに馴染みすぎている。この水も、われも、もといたところにかえすほどの違和をそなたに与えるには至らないようだ。そこで、そなたをここから追い出すにはどうすればよいのかを、思案した」  魚は水底の一点を指し示す。 「鏃があるだろう」  藻の幕を掻い潜った水底に、魚の示すものがあった。引き伸ばした菱形の一方に棒をつなげたような、かろうじて形を留めている小さな黒いものが、小石の隙間にある。 「触れてみるといい」  うながされるままに、示された黒に触れた。黒に触れた指先に痛みが走る。 「そなたのような、こうことをやめられないでいるものを、しっている」  あたたかな諦念を帯びた魚の声が遠のいていく。  驟雨が地を叩くように、蝉が鳴いていた。笹の葉の擦れる音がする。 「まったく、手のかかる」  影と声が、落ちてきた。 「転がっていたところからここまで引き摺って来た。わたしがあいつの呼び声に気づいて良かったな。そうでなければ、今頃、藪の中だ。打ち身や擦り傷が増えたかもしれないが、気絶したまま山で一夜を明かすことに比べれば、たいしたことではないだろう」  瞼を押し開けて、瞠目する。  彼女がいた。夕陽に染まった笹原で、日傘をさして、僕の頭上にしゃがみこんでいた。僕の顔を覗きこんでくるそのかたちは、記憶のなかの彼女と寸分も違わない。幼い頃に出会ってからずっと、彼女は少女のかたちを続けている。 笹原に寝そべるようにして呆けている僕に、彼女は問いを落とした。 「用事は済んだのか?」  済んではいないと返そうとして、思い留まる。 「済んだのかもしれない」 「はっきりしないな」 「大輪の花を、見ることはできた」  僕を見下ろしている、月輪の目が眇められていく。  夕陽の朱が黄金に、空の高いところから青が濃くなってくる。日傘の影と濃藍の夜が融けていく。  風が吹く。笹が鳴く。 「ほどなく夜が来る。今日のところは寝床に戻れ」  その声は離れたところから聞こえてきた。  肘をついて上体を起こす。筋や骨が軋み、細かな痛みが走る。よろめきながら、立ち上がる。舞い降りてくる夜にいくら目を凝らしても、僕にかざされていたはずの日傘は見つけられなかった。
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