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・黒鱗【くろうろこ】
そこは水のなかだった。夜を薄めたような青が満ちている水のなかだった。この足が踏み締めるものは何もなかった。天井も壁も見当たらなかった。頭から爪先まで水に埋まっているのだから、溺れてしまっていてもおかしくはない。そうならないということは、おそらく、これは夢なのだ。
青に透けている影のかたちが判別できるようになってくる。水底に突き立っているあれは柱だろうか。この身は沈降しているらしい。水流にゆらめく己の髪と衣の裾が、青に上塗りされながら白くたなびいている。あしさきが水底の小石に触れる。どうやら底まで沈みきったようだ。
面を上げてみると、道のようなところであるらしかった。拓けた細い筋の両脇に、家屋であったものの残滓が沈んでいた。かつては人里だったのだろう。道の先には細長いものが浮かんでいた。もっと近づいてみなければ、それが何であるのかをとらえることはできそうにない。
水底を蹴ってみる。前に進むことができた。
それは青が凝った黒だった。うねる黒糸のようなものが、細長い軸に幾筋も絡みついている、あおぐろい塊だった。黒の筋の隙間には、真暗の目が一対と、淡雪のような肌があった。透きとおった玉髄が藻草に埋もれて眠っているようだった。
これによく似たものを、いろどりは違うものの似たようなかたちをしているものを、知っていた。それはみずからをさかなと呼んでいた。これもさかなであるのなら、ことばが通じるかもしれない。
「こんなところで何をしている?」
ためしに声をかけてみた。宵闇を凝らせたような黒の円が、こちらを向いた。おれをとらえるまでの間だけ、その目は歓喜に輝いていたように見えた。だが、すぐに期待はずれから湧いた失望のようなものが閃いて、はしゃいだ彩りは失せていった。
「待っている」
底のない物静かな声だった。同じように底のない黒の目が、まっすぐにこちらを見つめていた。
気圧されそうになった。
このさかなは、おれの知るさかなとは、まったくの別物だった。おれの知るさかなは、陽に透けた末に消え失せていそうな、とらえどころのないさかなだった。
「待ち合わせか?」
「そうであればよかったのだが、違う」
噤まれた唇がふたたび持ち上げられるまでには、ためらっているような間があった。
「きんいろのさかなを、待っている」
泡の弾けるような声が、頼りなく、ゆらめいた。硬いままの表層からは、このくろいさかなが抱いているものを察することはむずかしかった。それでも、ひとつだけ汲み取れることがあった。
「そいつに会いたいのだろう。会いたいのならば、呼んでみればいい」
「呼んでいる。だが、届いてはいないようだ。あれでないものには、こうして届くこともあるようなのだが。そなたとはこうして路が重なっただろう」
「おれは、はずれか」
「言い方が悪かった。他意はない。そなたはあれをしっているはずだ。そうでなければ、よばれるはずはない」
「おれの知るさかなが、あんたの呼んでいるさかなであるのかどうかは、知らない」
「あれに恨まれて当然のことを、われはした」
かつてあったものごとを、淡々と並べていくだけの声だった。
潮騒が聞こえてくる。
「路がずれる」
予言めいた響きをもって、水泡の漂うような声が、弾けた。
引き揚げられるような感覚に襲われた。先ほどまでいた道が眼下にあった。くろいさかなは、浮いている石柱のごとく、そこに佇んでいる。
この身を洗った波が海原へと引いていく。渦巻く潮騒に潰されそうになる。
貝であったのなら幻でもゆらめかせて遊ぶことができたのかもしれないが、ここに流れ着くまでに角のとれてしまった骨の欠片ではそうもいかない。
きんいろのさかな。おれのしっている、あのさかな。
陽だまりに漂いながら、ふわふわと微笑むさかながいた。印象そのものがひどく漠としていて、放っておいたら息をつないでいるのかすら心もとないようなさかなだった。
聡明であるはずなのにある一点においてだけあまりにも愚直なそいつを、おれたちは金鱗と呼んでいた。
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