跋【ばつ】

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跋【ばつ】

 しばらく会っていなかった叔父に呼び出された。待ち合わせに指定された喫茶店は、それなりに大きな駅の近くにあって、煉瓦造りの洋館のような外観をしていた。百貨店や雑居ビルといった上背のある方形が並ぶ通り沿いにおいて、平坦ではない屋根があるというだけで、その喫茶店は目立っていた。なかに入ってみると、喫茶店の店内は広く、天井は高かった。テーブル席の幾つかは、背凭れを兼ねたゆるやかな曲線の壁に囲まれていた。天井で回っている木製のプロペラが、店に満ちている穏やかなにぎやかさを撹拌していた。  叔父はまだ来ていなかった。注文した珈琲が運ばれてくる。砂糖を入れた珈琲を掻き混ぜていると、かすかに煙草の香が漂った。この店は禁煙のはずだ。眼を上げると、テーブルの対岸に叔父が座っていた。 「久しぶりだね」  「今度はどこに行くの。母さん、呆れていたよ」  母の弟であるそのひとは、調べたり記録したりしている人であり、この度、何かを追って渡航するという。叔父曰く仕事であるというそれも、親戚一同の反応から察するに、理解を得やすいようなものではないらしい。血縁が集まると叔父は例外なく浮いている。  かすかにではあるが、煙草の香が密になった。叔父の指先がテーブルの中央よりもこちらに近づいてきていた。叔父の指先が押し出しているのは、菓子折りのような方形のものだった。古さも種類もまちまちな紙を束にして、厚紙で挟みこんだ代物だ。一冊の本のようであり、薄いノートを何冊も束ねたもののようでもあり、スクラップブックのようでもあった。  叔父の指先が方形の上に鍵を置いた。 「これは我が家の鍵。留守中、好きに出入りしてくれてかまわない。たいしたものはないし、あるものは使ってくれてかまわない。ただし、使い終わったらきちんと元に戻しておいてね。おじさんとの約束だよ」 「鍵の置き台になっている、これは?」 「それは、あるものについて、僕が綴ったものだ。これまで追い続けていたものを、書き留めたものの集積だ。だから、僕にしか意味のないものだし、内容にだって整合性はない。かかわっていそうだと僕が感じたものを、欠片にもならないはなしとして掻き集めたものにすぎない。同じことについて言及しているものであっても、違うことを主張している。矛盾も齟齬も同列で、正誤なんて判断がつかない。どこかにおいて誰かの口からそのようにあらわれたということだけが、共通している」 「そうであるのなら、これは手放していいものじゃない」  私は紙束を押し戻す。やわらかな微笑をたゆたわせて、叔父はそれを押し返してきた。 「悪足掻きのようなものさ。誰でもよいのではなくて、君に持っていてもらいたいんだ。ここに綴られているものに、わずかでも触れたことのある君に。君ならば、役に立たないからといって、これを燃やしたりはしないだろう」 「ひとが大切にしてきたものを、灰にしたりするわけはないでしょう」 「そう睨まないでくれよ」  うろたえながら宥めてくる叔父を見据えながら、珈琲を啜る。 「ところで、これは、何についての記述なの?」  叔父は思案の気配を漂わせる。そこに記されているものをあらわす、誰かに提示するにふさわしいことばを探しているようだった。やがて、叔父はこの音律を掬いあげる。 「ひとさかな」  叔父の掬いあげたことばは、紙葉の束に舞い降って、文字の堆積をすり抜けながら、テーブルの平面へと落ちていった。  それから私は叔父に会っていない。
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