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二 言ってない
いわゆる「大政奉還」の八カ月前、慶応三年二月のことだ。奇兵隊軍監だった三十歳の有朋―――当時は狂介―――は、かねてから藩へ要望していた、情報探索のために京へ行くことの許可をようやく得た。
許可が出ると、有朋はすぐ時間を作り、病床の高杉にそれを報告しに出向いた。奇兵隊初代総督で、何かと有朋を引き立ててくれた一歳年少の高杉には感謝しているし、得がたい友人―――そういう形容を、あの男が許せばだが―――だと思ってはいるが、ある意味………いや、「色んな意味」で、とにかく手のかかる男だった。こういった件は時をおかずに連絡しないと、途端に感情を害する。
高杉は、志士たちが眠る桜山招魂社の近くに小さな家を構え、そこで愛妾のうのと、望東尼という尼に看病される日々を送っている。死病に侵され、既に数ヶ月の命だろうとも囁かれていた。有朋が訪問した日も微熱が下がらず、痩せ細った小さな身体を薄い布団に横たえていた。
有朋が病室に入ると、面長のアバタ面に微かに笑みを浮かべ「よう狂介」と言った。機嫌は悪くなさそうだ、と思いながら、京行きの件を報告すると、小さい目がギラリと光った。
「京へ?」
「一月には井上さんが発ちました。わしも早いうちに」
有朋よりも三歳年長の井上馨―――当時は聞多(ぶんた)―――は、高杉の親しい友人だ。有朋が言い終える前に、高杉は「聞多が発ったことぐらい知っちょる」と気短に怒鳴った。
「じゃが、おめえが行くことなんぞわしは聞いちょらん」
「ですが………わしが要望を出したいと言うた時、高杉さんは、しっかりやれと」
「知らん」
間髪入れずに切り捨てられ、有朋は唖然とした。
「高杉さん」
「そんなこと、わしは言うた覚えはねえ。いや、言うちょらん。絶対に言うちょらん」
「桂さん(桂小五郎。藩の重役)にも言うたでしょう」
「知らん知らん知らん。知らんもんは知らん」
始まった、と有朋は頭を抱えたくなった。この駄々っ子が。
「藩命です」
「知らん」
「高杉さん」
有朋はわずかに語気を強めた。高杉は口をつぐみ、黙り込む。
どさ、と、部屋の外で雪が落ちた。
「………藩命ですけえに」
有朋はため息混じりに繰り返す。藩へ要望を出す前ならともかく、許可が出た今になってゴネられても困る。高杉はむっつりと黙り込んでいたが、ぼそっと言った。
「藩は、いつ行けと言うちょるんじゃ」
「期日は定まっちょりませんが、奇兵隊から同行者を選んで、色々、準備が整い次第と」
「それなら、急ぐことはねえ」
勢いを得たように高杉は言った。
確かに、期日は定まっていない。しかし、目まぐるしく政治情勢が変化する今だからこそ情報探索が必要なのだ。のんびり準備しているわけにもいかないだろう。
心の中で再びため息をつきつつ、有朋は再び辛抱強く説得を試みる。
「しかし、情勢も日替わりで変化しちょります。それを探ってこいとの藩命ですけえに」
「どの道、狂介に情報探索なんぞ向いちょらん。おめえが行こうが行くまいが大した影響はねえ」
「………」
この言い草には、有朋もさすがにムッとした。高杉はふんと鼻を鳴らし、寝返りを打って背を向けてしまった。
いっそ、「それでは、出発の前には知らせます」ぐらい言い放って帰ってやろうか。
一瞬そうも考えたが、それではほとんど「捨て台詞」だ。高杉の怒りに火を注ぐだけだろう。
とりあえず、今日は帰った方がよさそうだ。帰って書状ででも一度知らせて、それから改めてもう一度挨拶に来よう。
「長州の魔王」とも囁かれる動乱の世の風雲児、高杉晋作。だが、こうなると全くもって手間のかかる男である。有朋は高杉のむき出しになった背に布団を掛けなおし、「失礼します」と言って立ち上がった。
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