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三 十日待て(∞回)
高杉からの返事はない。
障子を開けて廊下に出ると、ひやりとした空気が全身を包んだ。庭は雪に覆われている。玄関へ向かうと、部屋でばたばたと音がして、ついで、パーンと音を立てて襖が開いた。
「狂介っ!」
有朋は驚いて振り返る。高杉は白い襦袢一枚で廊下に飛び出てきた。
「話は終わっちょらん! 何で勝手に帰るんじゃ!」
話も何も―――聞く耳を持たないのはどっちだ。呆れつつも放っておくわけにもいかず、有朋は慌てて高杉に歩み寄る。
「高杉さん」
細い肩に手を置き、「戻ってください」と促す。高杉は拳を握り締め、頭ひとつ以上は背の高い有朋を睨みつけた。
「ええか、話は終わっちょらんぞ狂介」
「………判りました」
応えると、高杉はくるりと身を翻し、部屋に入って布団に潜り込んだ。有朋は再び布団を直してやる。それから再び高杉の横に腰を下ろした。だが下ろしたものの、話をしようにも聞く耳など一片も持たず、打ち切れば打ち切ったで怒り出すこの「長州の魔王」を―――さて、一体どうしたものやら。
しばらく、室内に沈黙が降りる。
「………藩命ちゅうなら、是非もねえ」
ぼそっと、高杉は言った。
そこで話が終わるとも思えず、有朋は黙って続きを待つ。
「じゃがの、あと十日待て」
「………十日ですか」
「十日もすりゃあ、わしは死ぬけえに」
何を言うのだ。
「馬鹿なことを言うんはやめて下さい。そんなはずねえでしょう」
「それならまた十日待てばええ」
「高杉さん」
「おめえが出発するんはの、そうじゃ、わしの葬式が終わってからじゃ。それまでは許さん」
「………」
「ええか、わしは仮にも奇兵隊初代総督じゃ。墓碑にもちゃあんとそう刻むことになっちょる。わしの葬儀に、奇兵隊軍監のおめえがおらんなんぞ、そんな馬鹿な話はねえ。―――墓は、そうじゃ吉田がええ。吉田なら、奇兵隊のもんが墓参りをするのにも便利じゃ」
吉田には、奇兵隊の陣屋がある。
………高杉さん。
まくし立てるのを聞きながら、有朋はもう、死病に侵されたこの男に対して、呆れるべきなのか憐れむべきなのか判らない。
「ちいと調子がええ時に、わしが葬儀の手順書をおめえのために書いておいてやるけえに。おめえはそれを隅々まで読んで、きちんと段取りをして、で、わしが死んだら華々しく盛大に、完璧にわしの葬儀をする。軍監として、それが当然の義務じゃろう。おめえには、情報探索なんぞよりも、儀式の段取りの方がよーっぽど向いちょる」
情報探索よりも葬式の段取りの方が向いている。この自分が。
あまりの言い草だが、正直、既に怒る気力は尽きている。
「ええの、狂介」
言いたい放題に言い散らした挙句、高杉は念を押すようにじろりと有朋を睨んだ。有朋は曖昧に頷き、「ちいと、桂さんや隊のもんと相談します」と答えるのがやっとだった。
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