白百合、白い目、白金魚

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 白い無数の鉄砲が、こちらを狙っている。そんな突拍子もないイメージが、満員電車の窓の外、見慣れた通勤風景に重なった。  しかもイヤホンから流れるソプラノが、だんだん耳から頭へ刺さるように、鋭さを増してくる。俺の一番好きな、ショスタコーヴィチの交響曲なのに。それに音楽は、飽和状態の電車の中では欠かせない防御壁なのに。起き抜けに浴びたシャワーのあとから、ずっと体に違和感はあったのだが、これはいよいよ、駄目だ。  今日は嫌な一日になる。そうに違いない。まだ八時過ぎだというのに、車窓から射す光がしっかり熱を帯びている。今は腕にかけてあるジャケットに、袖を通して歩き回ることなど、考えたくもない。  それに何か忘れ物をしているようで、電車に乗ってからずっと気になっている。人ごみの中、(かばん)を開いて確認できないせいで、余計に苛々(いらいら)してしまう。  仕事用にいつもと違うものを持ってくる予定はなかった。それに昨夜、家で鞄から取り出したのは、スマートフォンくらいだ。ポケットに手をやると、定位置にその感触はある。それなら、もし財布を忘れていても、電子マネーで何とかなる。会社の近くにコンビニがあるから、大体のものは、()るなら買えば済むだろう。  言い聞かせるようにして考えてみたが、もやもやは一向に晴れてくれない。  家の鍵はかけた。施錠後に一度ノブを回してみるのは癖になっている。この真夏には放って置けない生ごみは、収集場所に出してきた。何だというのだろう。俺は無意味なくらい確認を重ねる性質で、そもそも滅多(めった)に忘れ物などしないのだから、気のせいだろうか。  いつもなら自信を持って首肯(しゅこう)できるのだが――どうも頭痛のせいで、調子が狂う。  降車駅まであと少し、出口は左側だと、励ますようにアナウンスが告げる。頭痛に耐えかね、イヤホンを引き抜いた。とたんに押し寄せる、話し声、咳払い、ため息――(よど)んだ空気の波。肌と鼻から感じるものまで(さえぎ)る手立てはなかったのに、今さら熱気と臭気に息が詰まる。  電車が止まると間もなく、空気の波に取って代わった人波に、外へ押し出された。いつの間にか足から力が抜けている。壊れた(かい)()いでいるみたいに、自分を操る手ごたえもなく、流されていく。改札へ向かうエスカレーターの手前で、やっと人の列の横に逃れた。  ホームの中央に、色褪せたベンチがある。いつもなら目にも留めないそれに、腰掛けようかと一歩、足が出た。しかしそれ以上踏み出せない。目立った汚れがあるのでもない、先客がいるのでもない。塗装がまだらに剥がれているだけの、無愛想なただの座面を前に、躊躇(ちゅうちょ)する理由は一つ、幻影。  汗みずくで電車を待つ男が滴らせた雫。コンパクトを閉じて立ち上がる女のスカートから落ちる、肌色の粉。水筒を出そうと学生が置いたスポーツバッグの、底に付着した土の色。悪戯(いたずら)な幼児の靴の跡。  そんないくつもの、無色の痕跡。存在していて不可視であるのか、そもそも存在しないのか、分からないのだから、幻影だ。  幻のせいで、休む場所を失うなんて馬鹿げている。そうは思っても、体は虚勢を見透かして、従わなかった。  線路がかすかに鳴っている。また人の洪水が来る前にと、エスカレーターに乗った。機械の振動とは関係ない方向に、視界が揺れる。仕方なく二の腕の外側で、手摺りの縁に軽く寄りかかった。白シャツの布越しに、黒い何かがじっとりと染みこんでくるようで、身震いする。  この暑さだ、不快なのは自分の汗に決まっている。そう言い聞かせつつスマートフォンを取り出す。習慣には、体調不良など関係ない。指が勝手に、手帳型ケースに挟んであるIC定期券を確かめていた。  ……だからやはり、忘れ物などない。はずだ。    改札を出てすぐ、会社とは反対方向に歩きながら電話をかけた。こんな時間にするのは初めてだったが、予想どおり、いつも早くから出勤している上司の声が応答した。  名乗って挨拶をし、体調が優れないため病院で受診のうえ、回復し次第出勤すると伝える。単調な自分の声が、耳に響き跳弾となって、頭の中を滅茶苦茶にする。  上司は「よっぽどだな」とか「無理するな」とか言ったと思う。最後に「気を付けろ」とも聞こえた。ありがとうございます、と絞り出したが、り、の辺りがねじれた気がした。  時間は絶え間なく過ぎていて、現在は瞬く間に過去になる。それを今、実感している。たった一秒前のことが、霧に包まれたように朧気(おぼろげ)だ。不手際(ふてぎわ)はなかったかと自分の行為を振り返っても、「そう思う」だの「気がする」だの、不確かな言葉がくっ付いて離れない。  とにかく病院に行かないと。ここからは歩いて十分ほどだ。声には出さず呟いた。そうして言葉の鎖に繋いで引っ張っていなければ、目的さえも霧の中に駆けこんで消えそうなのだ。  足は意識せずとも、勝手に働いている。下半身だけ水に浸かっているみたいに、地面を踏む感覚が遠い。もつれそうな足どりをごまかそうと、歩調を緩めて、横断歩道の青信号をやり過ごした。  変に息が乱れている。隣で立ち止まった人に気づかれないよう、細く深く息を吐いた。その分吸い込もうとすると、なぜか喉の奥につかえてしまう。吐き出すものも少なくなって、結果、息が浅くなる。苦しい。  天を仰ぎ、大きく口を開けて呼吸したい――そうしたときの間抜けな自分の顔を思い浮かべて、ふと――飼っている金魚に(えさ)をやり忘れたことに、気が付いた。
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