白百合、白い目、白金魚

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 青信号の再来を見逃していた俺の横を、人の塊がどっと抜けていった。信号待ちの間に、俺は行列の一部になっていたのだ。さっきの駅に、また電車が着いたからだろう。のろのろ歩いていたら、追いつかれたわけだ。その気がなくても、人には早足だと言われる俺なのに。  手押し車を押して、ゆったり歩いている老人の後ろに付いて、横断歩道を渡る。長い直線の道のずっと先まで、街路樹と植え込みが濃い影を落としていた。光の刺激が緩和されて、こめかみに感じる脈動が少し穏やかになる。しかし今度は、皮膚を爪の先で擦りあげられるような感覚。悪寒? 日陰だからって、大げさな。  と、自分を揶揄(やゆ)しても報われない。知らず(うつむ)いていたせいか、首が(だる)くて、顔を上げる。そのまま目的地までの距離を測ろうとして――横で誰かが見ていた気がして、はっと振り返った。  視線の主は、白い百合の花だった。見れば植え込みの中に点々と、なぜか一様に歩道の内側を向いて、百合が咲いている。その色と形に、俺はもう一度、金魚に餌をやり忘れたのを思い出した。  昨年の夏、妻と子どもが夜店で(すく)ってきた、白い金魚。朱色と黒の二匹と一緒に来たのが、今は白一匹しか残っていない。一ヶ月前、家族に出て行かれた俺と同じように。  金魚は一日餌がなくたって生きられる。飼い始めたばかりのとき、「金魚が死んじゃうから旅行には行かない」と駄々をこねた子どものために、調べたことがある。絶食に強い魚なので、一週間程度は飢えて死ぬことはないらしい。  だから金魚にとっては、いつも朝に落ちてくる餌が夜に来たからといって、食べられれば文句はないはずだ。  そう思うのに、朝の習慣を欠かした事実は、必要以上の衝撃で俺の精神を削り取り、傷を作った。じわじわと体液のようなものが胸の奥底に滲んでは、(おり)のように積もる。エスカレーターで手摺りにもたれたときと同じで、黒い色をしている。こちらを見ている百合の花が、その花弁の色で際立たせている陰影に――あるいは無言で俺を見送った金魚の悪意に、侵食されているかのように。    ふらふらと歩いても歩いても、道が終わらない。広くない歩道で自然に人が並んで、流れる速さの違う、数本の列を作って動いていく。白百合は咲き続いている。俺の悪事を暴き立てる拡声器となって。曰く――――。 「罪もない金魚を(しいた)げているのは、この男です! こいつは冷たい人間です! そして(みじ)めな人間です! 妻と子どもに見限られたからって、八つ当たりをしているのです! 自分が悪いのに! 育児に疲れて小言を言う妻にも、甘えたい盛りの子どもにも、どう(こた)えていいか分からないからって、仕事に打ち込むふりをして! 置いていかれた金魚を、自分みたいだとか思って、(いじ)めて、自分を罰した気持ちでいるんです! そうして罪の上塗りをする、愚かな人間なのです!」  百合の花の告発に耳も貸さず、人々はひたすらに歩いていく。花があまりにうるさいので、ほかの音が掻き消されて、皆黙って、足音もなく歩いているかのごとく、現実味がない。冷たい行進の風景。銃口に(おびや)かされて進む、憂鬱な兵隊たちの隊列のような。  そういえば今朝の電車から見た、線路脇の小道にも百合が咲いていた。あのときも、この花を鉄砲のようだと思った。こんなにうるさく叫ぶ花ではなかった。耳元で鳴り響いていたのは――そう、俺の一番好きな曲。一ヶ月前、一番好きになった曲。ショスタコーヴィチの交響曲第十四番、第四楽章。アポリネールのフランス語詩が、人の声と似るというチェロの音に乗せて、魂を洗うようなソプラノで歌われていた。「十字架のない墓の上の、三本の、大輪の、百合」――と、繰り返して。  ……第四楽章の曲名は、『自殺者』。「十字架のない墓」の主……。   「置いていかれた金魚を、自分みたいだとか思って」 「罪の上塗りをしているんです」  たった一度、餌をやり忘れただけだ。飢えさせようとしたんじゃない。  でも金魚を大切にしていたとは、我ながら言い(がた)い。餌やりを忘れたのは初めてとしても、ほかに特別、時間を()いてやったことがあるだろうか? 前に水換えをしたのはいつだった? 自分は、一度着て出た服なら帰ってすぐさま洗濯機に放り込むくせに。水槽の水は、この時期なら週に一回くらい、少しずつ換えてやればいいだろう。その程度なのに、先週換えてやったか否か、定かじゃないなんて。  あの金魚が自分みたいだと思っていたのは、確かだ。あいつは俺自身の代わりだった? だから最近、目を背けていて、忘れたことのなかった餌やりを欠かした?  ……俺に見立てて、殺してやりたかった?  白い花はまだがなり立てている。隊列を組む人々は何も言わない。花にも俺にも目もくれない。俺の罪になど、興味はないのだろう。彼らにとっては俺なんて、同情にも批判にも値しない、取るに足らない男なのだろう。  夏というのに肌を(あわ)立たせる寒さの正体は、この冷淡な人々か。自分のことしか考えていないような、ただ前へ前へと歩いていく、統率のとれていない兵隊たちの、冷たさか。  それなら。それなら、いっそのこと――――このずらりと並んだ真白い銃に、皆撃ち抜かれてしまえばいいのに。当然、俺も、含めて。  突然降って湧いた、その残酷な考えは、痛く重い頭を容赦なく打ちのめし、混乱させた。
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