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トンネルの列は遅々として進まず、皆一様に苛立ちを募らせつつあった。
足を踏んだ、踏まれたであわや乱闘沙汰かと思うほど言い争い、その騒ぎのせいで泣き出した赤子の声に「静かにさせろ」と怒号が飛び交う。生きていた時も人混み、死んでも人混みでみんな余裕がないらしかった。
かく言う俺も、喧騒と蒸し暑さと疲れでどうにかなりそうだった。もうどれだけこの薄闇の中で待たされているだろうか、検討もつかないくらいの時間が過ぎたように思う。鉛のように重たくなってきた身体と思考に、周囲の人間の騒めきが纏わりついてくる。真夏の帰り道に汗でシャツが背中に張り付いてきた時のような嫌な気持ちがふつふつと湧いてきていた。
いつまで待たせるんだと声を張り上げたくなるのを必死に抑えながら、ちんたらちんたら進んでいると、突然、足に何かが当たりつまづいてしまった。
誰かの靴にでも引っかかったのかと思って、周囲に目を光らせると、足元に黒い小さな固まりがあることに気がつく。そろりとつまづいた右足を退け、よく目を凝らして見たら、どうやら「それ」はうずくまっている女の子らしかった。二つに結った髪にはビー玉みたいな飾りがつけられている。まだ小学校にも上がっていないくらいの子だろうか、ちっちゃな頭が膝にめり込んでしまいそうなくらい、体を折り曲げて座り込んでしまっていた。
「だ、大丈夫?怪我してない?」
子どもの身体に足を引っ掛けてしまった。不慮の事故とは言え、そのまま立ち去るわけにもいかない。少女の肩に触れ、無事を確かめようとした。だが、女の子は顔をあげようともしない。亀みたいに首をすくめたままだ。小刻みに震える背中を見るに、どうやら泣いているらしい。
子どもに怪我をさせたかもしれない。
うずくまってじっとしたままの少女とは対照的に、俺はキョロキョロと焦って周囲を見渡した。少女の近くに親類がいるのではないかと思ったからだ。父親か母親がいれば、彼らにとりあえず謝る必要がある。しかし、それらしき人影は見当たらない。
「お父さんかお母さんは、一緒にいないの?」
俺がそう聞いた途端、女の子はガバリと顔を上げてこちらに向き直る。目は赤く腫れていて、長い間涙を流していたことが見て取れた。
「……いなくなっちゃった」
周囲の足音にかき消えてしまいそうな声でそう言うと、女の子の目頭から大粒の涙がぽぽぽと音を立てて落ちていった。
迷子だったのか。俺が彼女をそう認識すると同時に、彼女自身もまた口に出すことで自分の状況を改めて理解してしまったようだ。眼球という湖から鉄砲水のような涙が止まらなくなってしまっている。
慌てて、俺は彼女にごめん、ごめんと繰り返すが、女の子は泣いてばかり。名前を聞くも、わからない。こんな童謡の「犬のお巡りさん」みたいな状況、生前でも出くわしたことがない。
思わず、助けてくれる人はいないかと首を右に左に振って周囲を見渡すが、大抵の人は見ないふりか、気の毒そうな顔をしながらその場に留まっている二人を避けて通り過ぎていくだけだった。
死後の世界なのに、神も仏もない。どうすればいいかわからず、俺も一緒にわんわんと泣いてやろうかなどと考えてしまった、そんな時だった。
「パパどうしたの、大丈夫?」
唐突に肩を叩かれて、必要以上にどきりとする。一瞬、自分に話しかけられていると気が付けず反応が遅れたが、初老の女性が俺と少女の様子を見かねて声をかけてくれたのだ。
「いやいや、俺、パパじゃなくて……。この子、迷子みたいなんです」
「あらやだ、大変」
薄くてションと垂れた眉毛の角度をますます下げた女性はその場にひざまづき、女の子の頭を撫で始める。
「お母さんとはぐれちゃったのかぁ。怖かったでしょう。もう大丈夫よ~」
「う、うぅ……」
「ほら、おばちゃん、ハンカチ持ってるから。これで鼻チーンってしちゃいな」
女性は子どもの扱いに慣れているのか、器用に女の子をなだめていく。少女も差し出された手ぬぐいで鼻を噛むと、そこで気持ちがリセットされたのか目に見えて怯えが少なくなっていた。「綺麗なお顔に戻りましたねぇ~」なんて女性がカラカラ笑いながら話しかけると、少女もほんの気持ち程度だが顔をほころばせた。
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