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**最終話 ××××が職場にいるとやりにくい。**
四か月ちょっとですっかり着慣れたスーツに身を包んだ千秋は、
「ねぇ、ヒナ……」
目の前の二十階建てだか三十階建てだかの高層ビルを見上げてため息をついた。首が痛くなるほどの高いビルも、そのビルに吸い込まれていく社畜の象徴のような人々の流れもずいぶんと見慣れた。
「なに、千秋?」
千秋に名前を呼ばれて、陽太は不思議そうに首を傾げた。これまた子供のころからほとんどの時間、隣にあった見慣れた顔だ。ただ、今の千秋には陽太の顔を直視することができなかった。うつむいて、視界の端にちょろっと入る程度に見てあいまいに笑う。
「やっぱりさ、ちょっと時間ずらしてフロアに入らない?」
「なんで?」
「いや、なんでっていうか……」
しどろもどろの千秋の答えに陽太はさらに不思議そうに首を傾げた。
別に何かがあったというわけじゃない。ただ昨日、陽太に合鍵を渡して――と、いうか作らせて。千秋の部屋で夕飯を食べて。帰るのが面倒になったと言い出した陽太を部屋に泊めて。今朝はいっしょに通勤してきたと言うだけの話だ。
正直、何をいまさらという話だ。
このプロジェクトに入ってすぐ。まだ千秋の作業が忙しくなかった頃は毎日のように泊まっていっていたし、いっしょに出勤して、昨日も泊まっていったんだと千秋自身がチームメンバーに愚痴っていたりもしたのだ。
そのときと、昨夜の行動も今朝の行動も何一つ変わっていない。変わっていないのに――。
――ものすごく恥ずかしい気がする……。
火照る頬を手の甲で押さえて、千秋はぎゅっと唇を噛みしめた。
――岡本課長が妙なことを言うからだ。あんなこと言われなきゃ意識したりなんて……。
そこまで考えて、千秋はくしゃくしゃに前髪をかきまぜた。
――て、いうか別に意識とかしてないし……!
さらに恥ずかしくなってきてビルの前で地団駄を踏みそうになっていると、
「……秋! 千秋!」
陽太がさっと千秋の手を取った。
「ほら、千秋。遅れちゃうから行こう」
陽太に手を引かれるまま、歩き始めて。エントランスに入って――。
「な、なにして……!」
ようやく状況を飲み込んだ千秋は慌てて陽太の手を振り払った。
「なんで? 小さいころはよく手、つないで歩いたじゃん」
陽太は振り返ると不思議そうに首を傾げた。
「ここ、職場だから! 外だから!」
顔を真っ赤にして怒鳴る千秋をじっと見つめ、
「外でも職場でもなければいいんだ。手、つないでも」
さらりと尋ねた。いいわけあるか! とツッコミを入れるべきだったのに――。
「……っ」
うっかり言葉を詰まらせてしまった。しまっと、と思いながら千秋はすーっと目をそらした。でも陽太は大きく一歩、横に移動すると千秋の視界に入り込んでくると、
「今日も先に帰ってるから。あの部屋で待ってるから。だから千秋も早めに帰って来いよ」
嬉しそうな、はにかんだ笑みを見せてくしゃくしゃと千秋の髪を掻き混ぜた。その表情と行動にまた言葉を詰まらせているうちに、陽太はさっさとビルの中に入って行ってしまった。
陽太の背中を見つめて、千秋は頭を抱えてうめき声をあげた。認めたくない。認めたくないけれど――。千秋は盛大にため息をついた。
好きな人が職場にいると、やりにくい――!
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