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**第二十六話 君との約束ですから。**
定時を告げるチャイムのあと、一時間ほど経つとフロアの灯かりが消えた。すぐにふっと灯かりがついて、
「お疲れ~」
「お疲れさまでした」
チームメンバーの一人が帰っていった。残っているのは千秋と陽太、打ち合わせから戻ってこない岡本だけだ。いや、陽太も上がるつもりらしい。カバンを背負って立ち上がると、千秋の席までやってきた。
「千秋、仕事終わりそう?」
千秋の顔を見下ろして、陽太は心配そうに首を傾げた。病み上がりの出社一日目だ。あまり無理をするなと言いたいのだろう。でも、
「もう少しかかりそう」
残念ながら切りが悪い。千秋の言葉に陽太はがっくりと肩を落とした。
「そっか。じゃあ……先に、帰るよ」
そう言いながら陽太の足は一向にフロアのドアに向かない。きっと千秋が頷くか、先に帰っていてと促さない限り、ずるずると残るパターンだ。陽太の困り顔を見上げ、千秋は短く息をついた。
「あと三十分くらいで上がれると思うから」
足元のキャビネットにしまっていたカバンの内ポケットを漁って、千秋は陽太の目の前にカギを突き出した。千秋が一人暮らししている部屋のカギを、だ。
陽太は反射的にカギを受け取って、首を傾げた。
「駅にカギ屋があったでしょ。あそこで合鍵、作ってきて」
「誰の分?」
「百瀬くん――ヒナの分。今回ので懲りたから、ヒナにも合鍵渡しておこうって思って」
陽太のことだ。昔のことを覚えていようと、いまいと大喜びで受け取るんだろうと思っていたのに。陽太はじっと手の中のカギを見つめて、
「ねぇ、千秋。覚えてる? 高校のときの約束」
ポツリと呟いた。
とくん、と、千秋の心臓が小さく跳ねた。どんな約束、と言わないまま。陽太は顔をあげると千秋の目をじっとのぞき込んだ。何かを訴えるような、祈るような目に千秋の心臓がまた、とくん、と、跳ねた。
もし同じ約束を思い浮かべていて、もし同じように陽太も覚えていたなら――。
「俺が一人暮らし始めたら、ヒナにも合鍵渡すよ……って、やつ?」
瞬間、陽太はひまわりが花開いたかのような笑顔を浮かべると、
「うん、うん! それ!」
勢いよく頷いた。
「千秋、覚えてたんだ! すっごいうれしい!」
ぎゅっとカギを握り締めて、なんのてらいもなく喜んでみせる陽太に千秋は顔が火照るのを感じて慌ててそっぽを向いた。
「忘れ物常習犯のヒナとは違うから。覚えてるよ、それくらいのこと。――ヒナこそ、よく覚えてたね」
「覚えてるよ、当然。だって千秋との約束だもん。じゃあ、合鍵作ってくる!」
さらりと言って陽太はフロアのドアへと足を向けた。人の少なくなったフロアに陽太のよく通る声が響いた。
「ヒナ、うるさい! もう少し、声を抑えて……!」
「先に帰ってるから、とっとと仕事、切り上げて帰って来いよ!」
千秋の注意なんて全然、聞いていない。陽太は跳ねるような足取りでドアに向かいながら、大きく手を振った。
――ヒナ、うるさい……!
もう一度、心の中で文句を言って、千秋は顔を両手で覆った。盛大にため息をついた。顔を覆ったのは、鏡を見なくてもはっきりと自覚できるくらいににやけた顔を隠すためだ。どうしても、どうしようもなくにやけてしまう自分の顔に、千秋は机に突っ伏してうめき声を上げた。
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