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人混みに仕掛ける
殺し屋〔あかね〕の家は板橋宿から少し離れた郊外の、小竹村という農村にある。田畑が広がる村を北に進んでいくと木立の繁る丘があり、その裏手にある、小さなあばら屋にひっそりと暮らしている。百姓が暮らしていたのを、相場以上の値で買い取った家だ。田舎暮らしは不便ではあるが、江戸市中の騒がしさと、どこで誰が自分を見ているか分からないという緊張感から解放される日々は、〔あかね〕にとって大切なものとなっていた。
その平穏な暮らしへ、神田の安兵衛が現れたのは、晩夏の昼下がりのことであった。おい、と安兵衛の声が、窓の方から聞こえて目を覚ます。上半身を持ち上げるが、窓からは誰も覗いていない。そして背後からの気配に身を捻ると、厳しい残暑に開け放っていた戸から、人の良さそうな顔をちろりと覗かせたのだ。
「なんです、元締」
〔あかね〕は不思議そうに窓と安兵衛を交互に見ながら、枕に使っていた座布団を差し出した。
「ありがとうよ」
わらじを脱ぎ、座布団に正座をしたこの好々爺こそが、〔あかね〕の仕事の仲介をしてくれる、神田の裏社会を仕切る元締である。
「世間話をしに、わざわざここへは来ないよ」
しわくちゃな顔を歪ませて笑うのを見て、〔あかね〕は嫌そうな表情をした。
「まだ、前の仕事から三月しか経っていない」
三ヶ月前、〔あかね〕は安兵衛の依頼で、ある商人を殺害した。そのときの報酬が三十両で、今でもそのほとんどが残っている。三十両あれば、彼は二年は生活に苦労しない。贅沢を求めていない彼は、必要以上の仕事をしない。それは、安兵衛も心得ているはずである。
「急ぎの仕事なんだ。前に頼んだ奴が、しくじってね。依頼人が焦り始めている」
「そんなこと、俺の知ったことでは……」
「頼む。この通りだ。お前さんにしかできない、難しい仕事なんだ」
安兵衛が両手を床について頭を下げた。
「よしてくださいよ」
慌てて顔をあげさせる。江戸でも有数の、闇社会の大物にここまでされては、無碍には出来ない。それに、〔あかね〕には安兵衛に小さくない借りがある。
依頼料は、前金で二十両だった。
的、つまり標的は、役者の勇二郎という男である。益田屋という芝居小屋で一番の二枚目であり、その容姿から男女問わず多くの人間の心を奪い、騙し、傷つけてきた。その悪行から、安兵衛は依頼を受けた。だが、本元の依頼人には別の狙いがあるそうだ。
依頼人は、北町奉行・勝部丹後守刑部。庶民の贅沢の象徴ともいえる芝居を取り締まるため、人気役者を亡き者にしてから、勢いを失った益田屋や、他の芝居小屋を潰そうという企みらしい。
「そんな依頼を受けるなんて、元締にしては珍しいことで」
「理由はともあれ、勇二郎の所業には、目に余るものがある。生かしておけば、また多くの人が泣かされると思ってね」
「ふうん」
「それに、奉行の思い通りにはいかない」
安兵衛はそういって、にやりと笑った。何重にもなった皺が、波打つように歪む。
「ほう?」
「ま、後のことはいい。それより、早速段取りについてだが……」
そうして、日が暮れるまで二人は話し合った。
〔あかね〕は熟慮した後、安兵衛の手下を借りることにした。
仕事は、二日後と決めた。
当日。
午後の舞台を終えた勇二郎は、身を隠すことなく、近くの料理屋まで歩いていた。当然、彼に惚れ込んだ客たちが黄色い声を上げながら、その周りを歩いている。勇二郎の周囲には三人の用心棒と、芝居の仲間が数人いる。勇二郎に接近してくる客がいると、用心棒が強引に止める。締め上げる、といった方が正しいのかもしれない。
勇二郎は、自分が命を狙われていることを知っている。先に依頼を受けた殺し屋は、勇二郎が忍んで水茶屋にいるところを襲ったのだが、勇二郎が女を盾にして身を守ったため、し損じてしまった。
その一件をきっかけに、勇二郎は一人にならず、あえてこうして、人混みのなかに自分をおくことにした。無論、用心棒を雇ったうえでだ。こうすれば、自分を狙った者は必ず衆人の目に触れることになる。殺し屋はそれを恐れるから、自分は安全だと。そういう考えであった。
確かに、やりにくい相手ではあった。殺し屋としては、密かに殺し、さらに捕まることなく逃げおおせることが必須なのだ。その条件を満たすことが、勇二郎相手では難しい。そこで、安兵衛は〔あかね〕を頼った。
〔あかね〕は、勇二郎を囲う人混みの後方からずっと、標的を追っていた。日が落ちかけ、辺りは夕焼けに染まりつつある。右手の人差し指には、桜色の貝殻を研いで作った、鋭利なつけ爪が光っている。
前方。通りの左端、町屋の裏から、若い浪人が姿を現した。と思うと、歩いていた町人をいきなり斬りつけた。
「ああっ!」
断末魔。血しぶき。町人が倒れたのを見ずに、浪人はまた町屋の陰に消えた。
町人の悲鳴に、人混みの視線がそこへ注がれる。驚愕と恐怖から、黄色い声だったものが金切り声に変わった。
ざわめき。勇二郎は一歩下がり、用心棒たちが前に出て壁のようになる。
人混みは野次馬のようになり、勇二郎の美貌を忘れたかのように、倒れた町人の方に近づいていく。血が、まだどくどくと溢れているのが見える。その光景は夕焼けのせいか、どこか絵画的でさえあった。
人混みが散り、勇二郎の背中がはっきりと見えた。
瞬間。
〔あかね〕は音もなく走り、用心棒の背後で立ち尽くす勇二郎のうなじを、つけ爪で引っ掻いた。白粉の跡が残るうなじに、すっと一条の赤い線が浮き上がる。たいして、血は出なかった。
勇二郎がうなじに手をやりながら振り向いたときには、すでに〔あかね〕は取り巻きの中に溶け込んでいた。
「虫でも刺したか?」
そう勇二郎が呟いた。かと思うと、彼は雷に打たれたかのように身体を震わせ、倒れた。四肢がしばらく痙攣し、すぐに、息もしなくなった。用心棒たちを始め、取り巻きたちが今度は彼の死体に駐中したが、〔あかね〕はもうそのときには、その場から離れていた。
さらにいうと、先ほどまで血を流していた町人の死体も、なくなっていた。町人も、斬りつけた浪人も、安兵衛の手下だったのだ。
革袋に入れた鶏の血を使って辻斬りを偽装し、人混みの注目を集めてる隙につけ爪に塗った毒で勇二郎を殺害する。〔あかね〕の策だった。
十日後、看板役者を失って勢いをなくした益田屋に対して、北町奉行所が興業の禁止を申し渡した。芝居小屋も閉鎖された。奢侈禁止令に反するからという理由だが、町人たちも納得せず、芝居小屋を閉鎖する役人たちに抗議の言葉を口にする。その群衆の背中を、〔あかね〕は冷めた眼で物陰から見物していた。元締から、見てみろと言われたのだ。
止まぬ抗議に、現場の役人たちの筆頭であった与力が、威厳のある大きな声でいった。
「これは公方様のご意向でもある。乱れた風俗を正し、これから、清貧な町をつくっていこうではないか」
それからすぐ、同じ声で、
「貴様ら庶民には、芝居なんて贅沢だ!庶民は働いて働いて、税を納めてさえいればいいのだ!」
与力の声だった。だが、声の主である与力は呆然とし、あたりを見回している。すぐに、激高した連中が怒りの声を浴びせた。
「なんだ、今の言い方は!」
「待て、今のは私では……、ぐうっ」
否定する与力の顔面に、小石がぶつけられた。それからも、役人たちへの攻撃はしばらく止まなかった。
「何が起こったんだ……」
口をぽかんと開けている〔あかね〕の視界に、一人の若い男が見えた。彼はこちらを見て、笑みを浮かべながら歩いてくる。小さな丸顔に、薄墨で書いたような眉が目立つ。
「初めまして。元締から、お噂はかねがね」
男は、〔あかね〕に仰々しく頭を下げた。木枯らしのような細い声だった。
「お前さんは?」
「鸚鵡の晋太郎、と申します」
「あっ」
名乗った声は、先ほど聞こえた与力の声そのものだった。
「声真似だけの、裏稼業で」
「なるほど。元締が、奉行の思い通りにはさせないといっていたが」
恥ずかしげにはにかむ鸚鵡の向こうでは、未だに騒ぎが続いていた。その対照的な様子に、〔あかね〕も笑わずにはいられなかった。
「お前さん、うちにも来ただろう?」
「へへっ」
安兵衛が自宅を訪れた日。最初に窓から聞こえた声は、この男が真似た声だったのだ。
そういえばあの日、安兵衛は悪戯小僧のような笑い方をしていた気がする。してやられたな。〔あかね〕は高く澄んだ空を見上げて、また笑った。
結局この年、北町奉行が計画した芝居小屋の取り締まりは頓挫した。
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