第7話 電話

7/7
前へ
/59ページ
次へ
 音羽はテーブルに置いたスマホの画面を見つめながらため息をついた。背中では微かに寝息が聞こえる。  瑠衣はあれからしばらく泣き続け、やがて眠ってしまった。なんとか彼女をベッドに寝かせて、音羽はぼんやりと座り続けていた。  瑠衣の眠りを妨げたくなくて、部屋の電気は消したままだ。この部屋に注がれる明かりは、窓から射し込む街灯の光だけ。  ふう、と何度目かのため息をついて音羽はスマホを手に取る。  どうしたらいいのだろう。結局、警察の捜査も止められないままだ。理亜を助けると決めてから、何一つ状況は変わっていない。もしかすると理亜は無理だと悟ったのかもしれない。コネも力もないただの子供が、人を殺めた者を助けることなんて出来るわけがない。そう、冷静に判断したのかもしれない。  本心では助けを求めていても、現実はそう簡単にはいかない。そのことを理亜はあらためて感じたのかもしれない。だけど――。  スマホのロックを解除してラインの画面を表示する。一番上に理亜の名前があった。その名前を見つめ、音羽はホームボタンを押してスマホを待機画面に戻した。画面には時刻が表示されている。午前二時十分。  そのとき、くぅっと音羽の腹が鳴った。そういえば、今日は夕食を食べていない。こんな時間になって身体が空腹を告げるとは。苦笑しながら立ち上がると、音羽はそっと部屋を出た。  食堂には時間に遅れて食べられなかった寮生のためにパンの自動販売機が置かれてあった。パンならこの時間に食べても胃に負担はかからないだろう。  寝静まった寮の廊下を静かに歩く。食堂には当然のことながら誰もいなかった。低く響いているのは自動販売機の音だ。音羽は自動販売機の前に立つとクリームパンを買った。そして少し考えてからもう一つ、同じものを買う。きっと瑠衣も起きたら空腹なはずだ。いつもどこで朝食を食べているのかわからないが、買っておけば食べるかもしれない。  音羽はクリームパンを二つ手にしてテーブルに着く。そしてそのうちの一つを開けると、小さくちぎって口に運んだ。深夜に食べるには甘すぎる。しかし、空腹は満たされていく。もう一欠片を口に運んでから、音羽はぼんやりと光る窓に視線を向けた。  食堂の電気は消灯したままだ。部屋を照らすのは自室と同じく窓から入ってくる街灯の光だけ。夜明けはまだ遠い。音羽はポケットに入れていたスマホを取り出すとロックを解除して着信履歴を表示させた。その一番上には、理亜の名前。  最後に聞いた理亜の言葉が耳の奥から離れない。しかし、あれが彼女の本心とはどうしても思えない。理亜は本当に苦しいときにこそ平気なフリをするのだ。本当は助けてほしいのに、それを素直に言い出せない。理亜は、素直じゃなかった。  夏に高熱を出したときだってそうだ。明らかに様子がおかしかった理亜を心配して音羽が病院へ連れて行こうとしたとき、彼女は平気だからといつものように笑って言った。 「病院くらいひとりで行けるって。音羽は学校行きなよ。ほら、あたしも病院行くから」  そう言って音羽の返事も待たずに出て行った理亜は寮の前で倒れ、救急車で運ばれたのだ。全然大丈夫じゃないときに限って彼女は平気なフリをする。  今回だって、きっと――。  音羽の指が画面に表示された理亜の名前に触れる。画面が切り替わって番号が表示された。少し迷って二回だけコールしようと決める。こんな時間にたった二回のコールで彼女が出るわけがない。そんなことはわかっていた。けれど、明日になって電話をする勇気が音羽にはなかった。  発信をタップすると少しの間があってコール音が響く。そして、もう一回。 「だよね」  出るわけがない。ふっと自嘲するように微笑んでスマホを耳から離す。その瞬間「もしもし」と声が聞こえた。 「こんな時間に、なに?」  理亜の声だった。いつもより低い声。けれど、寝起きといった感じではない。 「……なんで、出たの?」  音羽が問うと彼女は「かかってきたから」と答えた。 「こんな時間まで起きてるの? 二時過ぎてるよ」 「お互い様でしょ。それに、あたしニートだし」 「たった二回のコールで出た」  理亜は答えない。 「もしかして、待ってたの?」  やはり理亜は答えなかった。ただ、彼女がフウッと息を吐いたのがわかった。 「あたし、やっぱり助けるよ。理亜が何をしたのだとしても、理亜が迷惑だって言っても、あたしは理亜を助ける」 「――どうして?」  低い声は微かに震えている。音羽は自然と微笑んでいた。 「だって、理亜はあたしのこと助けてくれたから」 「あたしが?」 「うん。入学してからいなくなるまで一年もなかったけど、ずっとあたしは理亜に助けてもらってたの。人見知りでなかなか学校にもクラスにも馴染めなかったあたしを励ましてくれたでしょ。テストで赤点ギリギリだったときは勉強を教えてくれた。あたしがちょっと体調崩すとすぐに栄養ドリンクとか買ってきてさ、いらないって言っても無理矢理に飲ませてくるの」  理亜の笑うような息遣いが聞こえる。音羽もつられるようにして笑った。そして「でも」と続ける。 「あたしは理亜を助けてあげられるようなこと、何もできなかったから。だから、今度はあたしがあなたを助けたい」 「……別に、助けは求めてないって言わなかったっけ」 「じゃあ、どうして電話に出たの? 助けはいらない。もう関わるなっていうのなら、電話なんて無視すればいいじゃん」  沈黙。ジーッと自動販売機の音が響く。寮の前の道を車が通り抜けていったのか光が揺れた。 「学校」  理亜の声に音羽はスマホの方へ意識を集中する。 「明日、学校が終わったらさ」 「うん」 「あの公園まで来てよ。海辺の。見せたいものがあるから」  そう言って理亜は一方的に通話を切った。音羽はしばらくスマホの画面を見つめ、やがて食べかけのパンを持って部屋へ戻った。
/59ページ

最初のコメントを投稿しよう!

31人が本棚に入れています
本棚に追加