私を呼ぶ声。

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 誰かに呼ばれた気がした。  駅前のスクランブル交差点、雑踏の中一度足を止め、振り返る。 「りー、どうした?」  手を繋いでいた先輩も一緒に足を止めてくれた。 「信号、変わっちゃうよ」 「あ、ごめんなさい」  慌てて私は歩き出す。 「誰かに呼ばれた気がしたんだけど、誰もそれっぽい人、いなかった」  歩きながら言うと、 「気のせいじゃない?」  先輩は優しく笑った。 「ですよね」  私も笑い返す。  先輩の笑顔の裏にある、状況的に過敏になってるんだよ、みたいな気持ちを察しながら、気にしないふりをして、笑う。  三ヶ月前、私は通っている高校の屋上から飛び降りた。死にたかったのだ。つらいことがあって、悲しくて、これ以上生きていたくなくて、飛び降りた。  だけど、木に引っかかり落下速度が遅くなり、植え込みに落ちたことで、私は助かった。助かってしまった。  情けない死に損ない。  一番情けないのは、なぜ死のうと思ったのか、覚えていないことだ。つらいことがあったのは、覚えているのに。  恋人である先輩も、家族も、友達も、私のつらかったことがなんなのか、わからないらしい。遺書もない。  つらいことがなんなのかわからないから、今の私は別に死にたくない。死ななくてよかったと思っている。  ただ、モヤモヤするだけで。  先輩はこんな状況の私でも、嫌いになったりせず、むしろ寄り添ってくれている。気づかなくてごめんねって、前よりも優しくしてくれる。  だから、モヤモヤするけど、今は幸せだと思う。  一点、染みみたいに黒いものが心の中にあるけど、幸せなのだ。本当に。 「りー」  また、誰かに呼ばれた気がするのは、最初の時から数日後だった。  振り返っても誰もいない。  先輩が不思議そうな顔をするから、すぐに前を向く。 「りー」  たくさんの人が行き交う中で、すぐ近くにも、すごく遠くにも聞こえる位置で、名前が呼ばれた気がする。誰からなのかは分からない。  ただ、声は先輩のものに似ている気がした。  それから、声は毎日のように聞こえるようになった。 「りー、思い出して」  そして声はいつからから、名前以外も告げるようになった。  やっぱり、先輩の声で。 「はやく、思い出して」  私が思い出すべきはきっと、私が死のうとした理由だ。  確かに不明なままでは、なんだかスッキリしない。私だって知りたい。でも、 「無理して思い出そうとしなくていいからね、つらいことなんて」  隣の先輩は優しく笑ってそう言う。この優しさを無碍にしてまで、知るべきなのだろうか。  交差点で、多くの人とすれ違う。声がする。たくさんの人がいて、色々な音がしているはずなのに、その声はしっかりと耳に届く 「りー、思い出して。その僕は、ニセモノだよ」  今日の声は、今までに聞いたことないことを告げた。  最近は聞こえても無視していたのに、それには思わず振り返りそうになるのを、 「聞いちゃダメだ」  先輩に腕を引かれて、阻止される。 「先輩?」  先輩はどこか焦ったような顔をしていた。 「りー、あの声を聞いちゃダメだ」 「りー、思い出して」  続けて聞くと声はやはり似ている。 「りー、聞いちゃダメだ! ここに居られなくなる!」 「りー、思い出して。ここに居ちゃダメだ」  相反する、言葉。  交差点を渡りきったところで、先輩に手を引かれながらも、振り返る。 「……先輩?」  反対側の歩道に、先輩が立っていた。  私と、手を繋いでるはずなのに。 「ようやく気づいてくれた」  向こう側の先輩が言う。 「りー、無視して。行こう」  私と手を繋いだ先輩が言う。 「待って、先輩。どういうこと?」  手を引く先輩に少し反抗しながら、向こう側の先輩を見る。 「りー、本当はもう、気づいてるだろ? 思い出してるだろ?」 「りー、気にしなくていい。耳を傾けるな」  向こう側の先輩の声も、隣の先輩と同じぐらいの大きさで聴こえる。  いつの間にか交差点の人ごみは消えていた。 「りー、思い出して。君はなぜ、死にたかったのか」 「りー、思い出さなくていい。つらいことなんだから、忘れていればいい」 「本当は君だって、薄々気づいているんだろ? この世界がおかしいこと。交差点に囚われてること」  この世界が、おかしい? 交差点? 「そうじゃなかったら、あの人ごみの中、僕の声が聞こえるわけない」 「りー、聞くな」 「君はそろそろ目覚めなきゃ」  目覚める? 私は起きているのに? 「りー、わかってるでしょ。君が何に絶望したのか」  握った手から視線を徐々に上にあげ、先輩の顔を見る。引きつった顔をしている。もう何も、言わない 「りー、それはニセモノだよ。君の頭が作った、都合の良い僕」 「でも」  この手はこんなに、あたたかいのに。 「りー、君が目覚めず、ずっとここにいることを僕が喜ぶと思う?」  いつの間にか、向こう側の先輩が目の前にいた。  優しい笑顔。生前と、同じ。 「りー」  涙が溢れてきた私の頭を、先輩が撫でる。  いつの間にか、手を繋いでるはずの先輩は消えていた。 「わかってるでしょ?」 「わかりたく、なかったの」  そう呟いた私の声は、掠れていた。  何度も何度も交差点を歩く。今度は無事に渡れるように、あなたが。  そんなことを自然と思ってしまう自分に、絶望する。私は、理解してしまっている。この現象を。 「りー、帰らなきゃ」 「先輩と離れたくない」 「ダメだよ。わかるよね? 僕が絶対に許さないことも」  わかる。わかってしまう。あなたは、優しいから。 「人ごみで無理かと思ったけど、僕の声が届いて本当よかった」  そんな声を最後に、意識がとだえた。  次に目を開けた時、視界に飛び込んできたのは白い天井。横を見ると、点滴がある。私の腕から繋がっている。 「鷺原さーん、検温の時間ですよー、失礼しますねー」  そんな言葉と共に部屋に入ってきたのは、看護師さんのようだった。 「あれ、鷺原さん?」  目を開けている私を見ると、小さく呟き、 「起きたんですね! 良かった!」  嬉しそうに告げる。先生呼んでこなくっちゃ、と再び消える。  私は屋上から飛び降りた。そして一命は取り留めたものの、意識が戻らなかったのだろう。それがわかってしまう。目覚めた私は、覚えている。  死にたかったのは、先輩が亡くなったからだ。あの、交差点の事故で。  それを阻止したくて、きっと私は夢を見ていた。それを、先輩が助けてくれたのだ。あの人ごみに囚われていた私を。  涙が滲んでくる。  死にたかったのに。先輩に会いたくて死んだのに、死ねなかった。  あのままずっと、夢の中で先輩と一緒に居られれば良かったのに。  ああ、でもきっと、先輩はそんなこと望まない。優しいから。  それが、悲しい。 「生きて」  何度も聞いた優しい声が、静かな病室に響いた気がした。
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