ならないおなら

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ならないおなら

9298a7b6-097f-4531-b2e2-507d271df1ce  プゥと音がした。 「またぁ? コージくん……」  担任の居川先生が教壇の上から呆れ顔を向けたのは、最前列ど真ん中に座る光司(コージ)だ。その後ろの席の芽衣(メイ)は漂って来た匂いに鼻をつまんだ。 「わりぃ、メイ」 「もうっ! サイアク」  メイが机の下で右足を振り上げて前の椅子を蹴る。  コージの隣の(マサキ)が「くっせぇ、くっせぇ」と両手をひらひらさせた。教室内はいつものごとく爆笑の渦だ。 「はい、はい。みんな静かに」  居川先生がパンパンと手を叩いても、教室のあちこちからクスクスと笑い声が聞こえてくる。メイはイライラしながら、もう一度コージの椅子を蹴った。 「メイ、やめろよ。謝っただろ。この暴力オンナ」 「謝れば済むってもんじゃないでしょ。悪いって思ってないくせに。ああ、もう、せっかく明日から夏休みだっていうのに、コージと水やり当番なんて、ほんと最悪」 「それはこっちの科白だ、ブース」  メイがさらに言い返そうとしたけれど、「そこまで」と教壇から下りた居川先生が二人の間に割って入った。 「二人とも、夏休み初日の水やり当番なんだから仲良くしてね。特にコージ君、森下造園二代目なんでしょ。しっかりお願いね」  教室のあちこちから「よっ、二代目」と冗談混じりの声があがる。それなのに自分一人だけ苛立っているのが、メイにはリフジン(理不尽)に思えた。 「二代目じゃないですっ」  コージは立ち上がりそうな勢いで居川先生の顔を見上げ、むきになって否定した。居川先生もクラスメイトも、いつもと違うコージの反応に驚いていたけれど、メイだけは彼の言葉の意味するところを知っていた。だからこそコージの態度が気に入らなかった。  一学年に一クラスしかないこの小学校で、コージが同級生から「二代目」と呼ばれるようになったのは二年生のときだ。授業参観日に『将来の夢』という作文発表があり、「ぼくは森下造園の二代目になります」と得意満面の顔で言い切ったその時から、彼は「二代目」になった。教室の後ろで、コージのお父さんは照れ臭そうに笑っていた。  けれど六年生になった今、彼の夢が別のところにあることをメイは知っている。それを知った日から、メイはイライラが止まらなかった。だからつい、勢いにまかせて口走ってしまった。 「二代目になった方がいいんじゃないの。どうせバスケットボールの選手なんて、なれっこないんだから」  メイはチラッとコージの顔をうかがった。まわりのクラスメイトたちが「バスケ?」と意外そうに顔を見合わせている。 「なんだよ、バスケって。次期社長じゃねーの?」  コージと仲の良いマサキが目を丸くして聞いた。コージは口を尖らせてメイを睨む。すぐ傍に立っていた居川先生が、「あら」と興味をそそられたような声を出し、妙に能天気な声がメイには不服だった。コトの大きさを分かってない、そう思った。 「コージ君、プロのバスケットボール選手を目指してるの?」  居川先生がコージの顔をのぞき込むと、彼はバツが悪そうに目をそらした。 「……いや、別に。っていうか、なんでメイが知ってんだよ」 「お兄ちゃんが言ってたの。どっか、バスケが強い中学校に行くんでしょ。遠くの。小学校卒業したらやっとコージの顔見なくて済むんだ。ホッとした。がんばってねー、バスケ」  皮肉を込めて言ったメイの言葉に、教室内がざわついた。居川先生も先ほどとはうってかわって困惑の表情を浮かべている。どうやら先生も初耳のようだった。  メイがこの話を兄から聞いたのは、一週間ほど前のことだ。  メイの兄とコージは町内の同じバスケットボールチームに入っている。プロを目指すようなものではなく、週一回の、どちらかといえばお遊びに近い活動だ。  その日、バスケを終えて帰って来たばかりの兄は、メイの顔を見るなり「そういえば」とコージの話をし始めた。 『コージって、マジでバスケやりたいみたいだな。うちの中学にもバスケ部あるけど部員ギリギリの弱小だし、やるならもっと強いとこでやりたいって、コーチに色々話聞いてるみたいだったぞ。○○中学ならここら辺からも通えなくはないし、あいつそっちに行きたいみたいだった』 「寮もあるみたいだしな」と兄が他人事のように言うのを、メイは呆然と聞いていた。そのあと兄はお風呂に行って、リビングで宿題をしている途中だったメイは国語のプリントの続きをしようとしたけれど、何度読んでも文章が頭に入って来なくなり、そのうちふつふつと怒りが湧いてきた。それ以来、メイはずっとイライラしている。  メイの学校ではほぼみんな同じ公立中学に行く。それが当たり前だと思っていた。それなのに、他の中学に進む素振りなど一切見せず、ヘラヘラ笑っておならをするコージにメイは腹が立った。コージのおならなんて慣れっこになっていて、口では悪態をつきながらも、それまでメイはおならに腹が立ったことなどなかった。それなのに、この一週間コージがおならをしてクラスが笑うたびにプチっと我慢の糸が切れそうになる。それどころか、コージの顔を見るだけで心がざわついて、つい尖った言い方をしまう。  コージのおちゃらけた態度で楽しげに笑うクラスメイトにも、メイは苛立ちを感じはじめていた。だから、自分だけが知っているコージの秘密を、全部ぶちまけてしまいたかったのだ。そして、実際に口にしたらしたで胸がモヤモヤし、メイはまたイライラした。 「マジかよ。コージ、他のガッコ行くの?」  目をそらしたままのコージにマサキが詰め寄った。 「行かねーよ」 「ほんとに?」 「行かねーってば。無理だって親に言われた」  コージは投げやりに言って、一瞬だけマサキと目を合わせたけれど、またプイッとそっぽを向いた。クラスのなかにどこかホッとした空気と、気まずい雰囲気がごちゃまぜに漂って、居川先生はまたパンパンと手を叩いた。 「じゃあ、夏休みの注意事項、確認していきまーす」  教室内に笑い声はなく、みんな静かに先生の話を聞いていた。メイはなんだかコージに悪いことをしてしまった気分になり、謝ろうかと考えたけれど、やめた。謝らなくても、明日一緒に水やり当番をすれば今まで通りの関係が続くはずだと思った。  一学期が終わって、これから長い長い夏休みがはじまる。そのうちメイがコージと顔をあわせるのは二回の水やり当番と、盆明けにある出校日。その三日は確実だった。それ以外に会う機会があるとすればプールだ。メイは毎年夏休みになると学校のプールに通った。けれど、泳ぎの苦手なコージがプールに来たことはこれまでに一度もなかった。 (もしプールで会ったら思い切りバカにしてやろう)  四年生のときも、五年生のときもメイはそんなふうに考えて、結局それが実行されたことはない。それでも、メイは六年生の夏休みを前に同じことを考えている。  §  夏真っ盛りの日射しは、午前十時でも鉄板の上で焼かれるように暑い。夏休み初日、学校に着いたときメイは汗びっしょりで、花壇のある校舎裏に行く前にハンカチで顔を拭った。  蝉の声がうるさくて、それなのに空気はシンとしている。空は怖いくらいに青かった。  グラウンドも校舎も見た目はいつもと変わりないけれど、メイには何かが違って見えた。授業中に突然みんなが神隠しにあって誰もいなくなってしまったような、そんな感じだった。  不思議な緊張をおぼえながらメイは校舎裏へと向かい、花壇の端が目に入ったところで数人の声が聞こえた。他の学年の水やり当番が何人かいて、メイがじょうろの置かれている水場へ行くと、すでに来ていたコージが「あっ」と顔を向けた。 「おせーよ、ねぼすけメイ」 「あんたが早過ぎるんでしょ」  六年の花壇にはサルビアとニチニチソウとペチュニアが植えられている。細長い花壇の向こうとこっちで、二人は向かい合うようにして水やりをした。白っぽく乾ききった土は水をどんどん吸い込み、濡れた花は息を吹き返したようにぐんと伸びをする。ふいに風が吹き、水滴が二人の肌を濡らした。  首にかけたタオルで汗を拭ったコージが、「なぁ」とメイに声をかけた。「なに?」と返す声は条件反射でわずかに尖ってしまう。いつもなら気にしないけれど、メイは昨日のことがあったので「ミミズでも死んでた?」と付け足し た。彼女なりに、普通っぽい言い方をしたつもりだった。 「ちげーよ。俺らの花壇、花じゃなくて一年みたいに芋だったら食えるのになって、思ったんだよ」  メイの頭には「森下造園二代目のくせに」と浮かんだけれど、すんでのところで口にはしなかった。 「焼き芋でもしたいの?」 「いいねー、焼き芋」 「コージ、おなら止まんなくなるよ」 「うっせーな」 「うっせーのはそっちでしょ」  何人か水やりを終えて帰って行く姿があった。少しずつ人数が減って、そのぶん蝉の声が大きくなっていくような気がする。生徒のいない校舎はシンと静まっているけれど、いつも通りだとメイは思った。それは多分コージがいるからだ。  昨日まで感じていたイライラはいつの間にかどこかへなくなっていて、メイはふとコージに謝ってもいいような気がした。 「ねえ、コージは中学になったらバスケ部に入るの?」 「俺? 入るつもりだけど、お前の兄ちゃんによるとあの中学のバスケ部めっちゃ弱いらしいんだよな。まぁ、それでも入るんだけど」 「プロになるのは諦めるんだ」 「別に、わかんねぇよ。お前は、……メイは中学入ったら部活何すんだよ」 「あたし? うーん、考えてないけど、絶対バスケ部はない。だって臭いもん。どうせシュートしながらおならするんでしょ」  アハハと笑ったコージは空になったじょうろをブンと振り回した。飛んだ水滴が陽を反射してキラリと光った。 「もう! 水滴かかるからやめてよ。ほんと男子ってやることがガキ」 「あー、やだやだ。女子はほんとうっさい」  小さな花壇の水やりは、二人ですればあっという間に終わってしまう。あっという間だとメイは感じたけれど、気づけばメイとコージが一番最後だった。  次の水やり当番はお盆前で、メイにはそれがとても先のことのように思える。じょうろを片付け、二人は並んで校門へ向かった。 「次の水やりんときは寝坊すんなよ、メイ」 「そっちこそ。日にち間違えて来なかったりとか、やめてよね」 「間違えねぇよ。その日バスケある日だから」  じゃあな、とコージは校門前に停めていた自転車で帰っていった。自転車のカゴにはバスケットボールが入っていて、メイはコージの遠ざかっていく後ろ姿を見つめながら、昨日のことを謝らなかったのを少しだけ後悔した。けれどコージが気にしているようでもなかったから、メイはもうそのことは考えないことにした。  §  休み前には夏休みはたっぷりあるように感じるのに、あっという間に八月も十日を過ぎていた。宿題は半分以上終わっているけれど、自由研究と工作という難関を考えるとメイは少し気が重くなった。 (どうせコージはまだ宿題の半分も終わってないはず)  二回目の水やり当番の日、何と言ってやろうかメイは考えながら、少し早めに学校に着くように家を出た。案の定コージはまだ来ておらず、メイはじょうろに水を汲み終えてからしばらく彼のことを待った。他の学年の水やり当番が水をやりはじめてもコージは来ず、仕方なくメイは一人で水やりを始めた。  寝坊したのか、日にちを間違えたのか。一人でする水やりはなかなか進まない。メイはコージが来た時のシミュレーションを頭の中でしながら、その時に言う文句の言葉を考えていた。けれど、彼女の前に姿を現したのはコージではなく居川先生だった。 「コージ君、家の事情で今日来れなくなったって今電話があったから、先生が一緒に水やりするね」  コージにぶつけるはずの文句は行き場を失い、メイは思わず「えー」と不平を漏らした。 「家の事情って、何かあったんですか」 「先生もちょっと詳しくは分からないの。ご両親は慌ただしくしてるみたいで、コージ君が学校に電話してきたの」 「コージが? それって、もしかしてサボりじゃないんですか」 「そんな感じじゃなかったわよ。メイちゃんに謝っといてって、申し訳なさそうに言ってた」  そうですか、と言いながらもメイは釈然としなかった。家の事情ならば親が連絡を入れるのが普通だし、メイ自身これまで学校に電話をかけたことなどなかった。  居川先生と二人で水やりをしていると、やけに蝉の声が大きく聞こえた。他の生徒はもうみんな帰っていて、メイは空っぽの校舎の窓に映る自分と居川先生の姿を眺めながら、黙々と水をやり続けた。  ふと、不安に駆られた。自分と居川先生だけが世界に取り残されたような、もしくはコージが突然神隠しにあって目の前から消えてしまったような。 「先生」 「なあに?」 「六年の花壇も、一年生みたいに芋だったら良かったのに」 「焼き芋でもしたかった?」 「したいけど、そしたらまたコージがおならするから、それもやだ」  先生は笑っていたけれど、メイの不安が消えることはなかった。それどころか、その日バスケから帰って来た兄の言葉でメイの不安はさらに膨らむことになった。 「今日のバスケ、コージ無断休みだったけど、水やり当番には来てたのか?」 「ううん。家の事情で来れないって、学校に電話があったらしいよ」 「電話あったんだ。なんかさ、コーチが家に電話したらしいんだけど、全然繋がらないみたいでさ。家って言ってもコージんちの家電って会社の電話だからさ、繋がんないのおかしいよなって、みんなで心配してたんだ。家の事情って、なんだろうな」  首をひねりながら風呂場へ向かう兄の後ろ姿を、メイはじりじりした焦りのようなものを抱えながら見つめていた。夕飯のとき、兄は同じ話を両親にしたけれど、父も母も「どうしたのかなぁ」と口にしながらも、それほど心配しているようには見えなかった。  お盆には家族で父方の祖父母の家を訪ね、久しぶりに会った従兄弟と遊びながらも、メイの心にはずっとコージのことが居座っていた。宿題をしようとしてもなかなか手につかず、集中しようとして一人で部屋にこもると余計にコージのことが頭の中を駆け巡った。 (コージのせいで宿題が進まないのに、あたしより早く宿題済ませてたら絶対許さないから)  祖父母の家から戻って、その翌日が出校日だった。その慌ただしさに疲れを感じながらも、メイは早く学校に行ってコージがどうしてあの日水やりに来なかったか確かめたかった。というよりも、コージが学校に来ているかどうか確かめたかった。 「あれー、コージ来てないの?」  時間ギリギリで教室に入ってきたマサキが、メイの前の、誰もいない席を見て言った。 「寝坊でもしたんじゃない?」  メイは誰かが何か口にする前にそう言って、チャイムがなるまでのほんの一分ほど、じっとコージが来るのを待っていた。朝学校に着いてから、クラスで交わされるヒソヒソ話はすでにメイの耳にも入っている。それでも、メイは待った。コージが教室のドアを開けるまで、おちゃらけた顔を見せるまで、チャイムが鳴らなければいいと思った。  教室に入ってきた居川先生は、「久しぶりね、おはよう」と笑顔でみんなの顔を見回したあと、最後に空っぽのコージの席に目を向けた。 「みんなにお知らせがあります。急な話なんだけど、森下光司君は家の都合で引っ越すことになりました」 「えっ」と驚きの声をあげたのはマサキを含めた数人で、教室のあちこちでは朝と同じヒソヒソ話が交わされた。「ヨニゲ」という言葉がメイの耳を掠めたけれど、マサキには聞こえていないようだった。 「先生、コージはもう引っ越しちゃったんですか? 学校にはもう来ないの?」 「残念だけど、もう引っ越しちゃったの。ちゃんとお別れしたかったわね」 「そっかぁ」  マサキがため息をつくと、先生は話を切り上げるように「では」と明るい口調で言い、パンパンと手を叩いた。ヒソヒソ話はなくなり、けれど教室内がじっとり重苦しい空気に包まれているようにメイには感じられた。  あの水やり当番の日、森下造園に電話をしてみれば良かった。電話が繋がらなかったら、直接コージの家に行ってみれば良かった。のんきに祖父母の家で遊んでいたことが、メイには悔やまれてならなかった。  最後にコージを見たのは、夏休み最初の水やり当番の日だ。自転車のカゴにバスケットボールをのせて、コージはそのままどこかへいなくなってしまった。 「プゥ」  マサキの声だった。突然のことに、先生も含めてみんなキョトンとしていた。 「さすがにコージみたいにおならはできねぇわ」  マサキは最前列から教室を振り返り、コージのようにヘラヘラ笑った。 「匂わないからいいだろ、メイ」 「こら、マサキ君」  居川先生は咎めるような口調で言ったけれど、その顔はどこか寂しげに微笑んでいた。教室内にクスクスと笑いがおこる。メイは笑えるような気分ではなかった。  目の前の空席にコージの背中はなく、机の下にぴったりと納められた椅子は蹴り上げても届きそうになかった。そのうち空っぽの席はゆらゆらと陽炎のように揺れはじめる。鼻をすすると、堪えきれず涙が溢れた。  居川先生とマサキがメイを見ていた。何度か鼻をすすると教室の別の場所からもすすり泣きがおこり、マサキが「泣くなよ、メイ」と半べそをかいたような声で言った。それを機に、メイは声をあげて泣いた。すぐにクラス中が大号泣となり、その中でマサキだけが何度も何度も「泣くなよぉ」と頼りない声で繰り返していた。 ――end
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