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第2話 袋路の魔鏡館
「うぇえええ……」
車に揺られること約二時間。
所長の運転は思ったより荒っぽくなかったけれど、車内で慣れない読書をしたものだからすっかり酔ってしまった。
「おーい朝くん、大丈夫か?」
「す、すいません……」
道中、立ち寄ったサービスエリアのベンチでくたばっていたら所長がペットボトルの水を買ってきてくれた。
「ちょっと刺激が強かったかな〜?」
「いえ、そんなことは……」
貸してもらった本に、難解なことは書かれていなかった。
単純な言葉で単純なことが記されているだけなのに……全く頭に入ってこない。
日本人が中国語を読んでいるような感覚……と言ったら伝わるだろうか。
文字は読めるけど、内容が分からない。
守護霊がどうとか、あがるとかおちるとか、上層世界とか輪廻転生とか、悪霊とか幽霊とか神霊とかケガレや忌み地、霊道、動物霊に低級霊に野良神様や古神社、アカシックレコードやエーテルなどなど……。
今まで、幽霊や見えない世界のことについて全く理解を示していなかったから、土台がないのだ。
しかも、どの本からも所長が吸っている煙草の臭いが染み付いていて、余計に車酔いに拍車をかけてしまった。
「どうだ? ちょっとは分かったか?」
「ええと……」
正直、よく分からない。
いや、全く分からない。
「ちょっとだけ……」
こういう時、嘘をついてしまうのが僕の悪い癖だ。
所長は僕のひきつり笑いを見て「ふーん」となにかを察したような表情をして隣に座った。
「なぁ、強くなりたいか?」
「は、はい! そりゃあもう!」
「よっし、それならまずは……どんどん取り憑かれよっか?」
「は?」
自分の耳を疑う。
まだ『取り憑かれる』という単語が日常会話の中に紛れていることに慣れない。
「どんな格闘技だって、一番最初は受け身のやり方から学んで行くものだろ?」
「か、格闘技はそうかもしれませんけど……っ!」
「本当に正しいことは、万物に通じるんだぜ〜?」
「だ、だからといって……!」
所長は時々、嘘か本当か分からないことを真顔で言うから困る。
ただでさえ、人の顔色を伺うのは苦手なのに……!
「大丈夫大丈夫、俺がきっちり教えてやるから!」
「取り憑かれ方を、でしょ!?」
「それが大事なんじゃん」
「大体、取り憑かれたらどうなるのかさえ分かんないんですが……!!」
「取り憑かれたら? そんなん、歪んで爛れて廃れて萎れて塞いで……まぁ、分かりやすく言うと人間らしさを失うってことかな。取り憑かれるってことは、この世から引き剥がされるってことだから」
想像するだけでも恐ろしい。
でも、今まで取り憑かれていたらしい僕の日々を思い返せば……その辛さは理解できる。
「ぼ、僕は取り憑かれない方法を教えて欲しいんですけど……」
「何事も近道なんてないのさ。急いては事を仕損じる、急がばまわれ、万里は一日にしてならず……」
「そ、それっぽい単語を並べて誤魔化さないでください!」
つい、言葉を荒げてしまったら所長がまたクシャと顔全体で笑ってなにもない大空に向けて両手を広げた。
「いいか? 基本的に除霊や防霊は自分の行動ありきだ! その場しのぎで払っても、性根が変わらないままだったらすぐにまた元通りだぞ!」
「そ、それは……そうですけど」
「まずは基本のキからだな」
人目を集めそうなポーズをやめた所長は、スーツのポケットから三角形の包みを取り出した。
事務所にいる時はだらしのない格好だったのに、車に積んであったのか今はパリッとしたスーツ姿だ。髪の毛もキッチリ撫でつけられて、いかにもできる営業マンといった出で立ち。
……見た目って、やっぱり大事なんだな。
次の休みには、散髪して靴を磨こう。
「ホイ、これもあげる」
手渡された包みを広げると、中には白い粉が入っていた。
「これは……?」
僕の右手には、所長にもらった水。左手には、所長にもらった怪しげな白い粉。
「怪しいもんじゃないよ。ただの塩。それを、利き手の人差し指と親指でひとつまみして舌に乗せた後、そのペットボトルの水を飲むんだ」
「は、はい……」
しょっぱい。
塩単品で味わうなんて初めてだ。
ダイレクトな刺激に眉を顰めつつ、言われるがままペットボトルに口をつける。
「………」
「それ、全部飲むまでペットボトル離しちゃダメだぞ」
マジですか。
500ml一気飲みとか辛いんですけど……!
「………」
「おーおー、すごいすごい! あと少し! 頑張れ!!」
所長の励ましを受けて、なんとか飲み干した。
「ブハッ……ハァ、ハァ……」
「すげぇな、別に一気飲みしなくてもよかったのに」
「へっ!?」
「『ペットボトルから』手を離しちゃいけないんであって、『飲み口から』口を離しちゃいけないってことじゃないからな。人の話はよく聞くことだぜ」
「………」
いたずらっ子のような理屈だ。
「睨むなって〜。朝くんって、従順そうに見えて時々イヤーな目つきするよね」
「すっ、すいませ……」
「ああ、だから謝らなくていいんだって。俺はキミのそんなところも個性だって思ってるからな!」
所長は陽気に僕の背中を叩く。
一気に水分を摂った後はそういうことは控えて欲しいけど……所長は気さくだし、幽霊とかそんな単語を口にしなければ良い上司なんだと思う。
「さっきやってもらったのは、簡易的な結界の張り方なんだ」
「結界?」
「そう。元々、塩には清めの力があると信じられているだろ? その刺激と、冷たい水を一緒に摂取することで自分の体内を清浄に保つんだ」
「それは、また気の持ちようとかそういう話……ですか?」
「いいや? これは本物。でも、効果は六時間だから気をつけて。水の量は冷水でコップに七分目以上な。飲み干すまで入れ物から手を離さないこと」
条件が多い。
これは本当のことなのだろうか。
単に冷たい水を飲んだせいなのか、結界のおかげなのかはハッキリしないけど、なんとなくお腹の底に何かが溜まってちょっと落ち着いたような気がする。
「よしっ! じゃあ行くぜ」
「はい……。あの、休憩ありがとうございました。お水のお金、払います」
「いいよ、そんなん。キミはこれから、もっと別のモンを祓ってもらうんだから」
僕の言う「はらう」と所長の言う「はらう」はたぶん違うんだということは、なんとなく感じることができたけど、その真意はやっぱり分からないまま僕は件の袋地へと近づくため再び車に乗り込んだ。
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