第1話 田舎の鉄筋三階建て

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「失礼します……」  扉を開けると、その先には整った内装が広がっていた。外は曇りなのに、光の取り方が上手いのか室内は明るく見える。掃き掃除の行き届いた玄関にはぴかぴかに磨かれた革靴と、やけに古びたピンクのサンダルがひとつ。誰も出迎えてくれる様子がないので、サンダルの隣にそっと自分の靴を並べて上がり込んだ。 並べてみると、自分の靴がいかに汚れていたのかがわかる。帰ったら、磨かないとな……と思いながらおそるおそる歩みを進める。  玄関の飾り棚には、上品な色合いの白い皿の上に小石がいくつか置いてあった。  芳香剤かな?  右に曲がると二階へと続く階段があり、何故か階段の一番下の段に小さな花瓶に活けられた竜胆の花が一輪。  なんでこんなところに?  どうして、床に直置き?  そんな疑問を胸に抱きつつ、うっかり本物の一般家庭に迷い込んでしまったのではないかという疑念が未だに拭い切れない。  だって、あまりにも普通の家過ぎるのだ。事務所だとは思えない。どこを見渡しても塵ひとつ落ちていないし、家よりもモデルルームというべきか。 「もし、家を間違えてたら言い訳つかないな……」  そんな独り言が思わず口から零れてしまう。  ひとまず階段は通り過ぎて、開けっ放しになっていた扉の先をそっとのぞき込んだ。  洋室らしいその部屋は大体八畳くらいで、シングル用のベッドと折りたたみの脚の短い机、それに壁一面に広がる本棚があるだけ。折りたたみ机の上には、伏せられた写真立てが置いてある。本の量が異常に多い事を除けば、いかにも単身者のシングルルームといった様子だ。  一階が居住スペースで、二階が事務所なのだろうか? おかしなつくりだと思う。  大量の本棚も異様な雰囲気を醸し出しているけれど、意味ありげに伏せられた写真立てに興味を惹かれて、手を伸ばそうとしたところで何かの呻き声が聞こえた。 「……ぅ、う、ううっ、うっ、うっ……」  空耳じゃない。  確かな質量と感情をもった、人間の声だ。慌てて伸ばしていた手を引っ込めた。  一瞬にして背中に冷や汗が滲む。  反射的に背後を振り返るけれど、そこには誰もいない。 「な、なんだ……?」  得体の知れない恐怖が全身を駆けめぐる。  幽霊やお化けなんて見たこともないけれど、信じていないわけではない。できるだけ、考えないようにして今日まで生きてきた。  動かないでさえいれば、今以上に状況が悪化することはないと言わんばかりに硬直していた身体をなんとか動かして、声の出所を辿ろうと耳を澄ます。 「だ、大体こういうのは、猫の鳴き声だって……」  勘違いにしたかったのに、僕の気持ちをあざ笑うかのように声は段々ハッキリと大きくなっていき、一定のリズムを刻みだした。 「あ、っああ、あ……、あっ、あっ、あっ、あっ」 「ヒイッ!?」  でも、インターホン越しに聞こえてきた幼い声とは似ても似つかない。  声の主は大人……たぶん女性で、さっき通り過ぎた階段の向こうから聞こえてくる。  気にかかるのはインターホンの女の子だ。  もしも事件なら、あの子が危ない目にあっている可能性が高い。そうでなくても、ここが事務所ならば誰か職員が危険な状態なのかもしれない。 「よ、よし……」  ええい、ここまで来たら自棄だ。  どうせ今以上に、失うものなんてないわけだし。  誰かが病気なら救急車を呼べばいいし、強盗なら襲われてやるし、幽霊なら逃げるだけ。  紫に色づく竜胆の花を横目に、階段を一段ずつ上る。  足を次の段にかけるごとに、呻き声はどんどん大きくなってきた。 「ねぇ」  耳元で、幼い声がした。  よかった、女の子は無事なのか、と思って振り返る。  けれど……僕の背後には、誰も、いない。  階下に置いてきた竜胆の花だけが、そっと佇むのみ。 「あなた、だれ?」 「……っ、……!!!」  あの世からの声が鮮明に耳へ響いて、僕は完全にビビって震え上がった。  階段を降りて外に出ればいいのに、声の聞こえてきた方向に突っ込むことが怖すぎてそのまま駆け上がる。  二階は階段を上がって左手にお手洗いや洗面所などの水回り、右手にリビングダイニング。 トイレの扉は半開きだけど、リビングへと続く扉は堅く閉ざされている。 【グッドバイ:事務所】と表札と同じく達筆な筆で書かれているから、二階が事務所スペースで間違いないようだ。扉の向こうからは、生々しい女性の呻き声が聞こえてくる。そして、人間の気配も。  ええい、この際人間なら誰でもいい! 「だ、だれかっ……!!」  なだれ込むように扉を開けて、中に飛び込んだ。 「お?」  今度こそ、想像しているような不動産事務所が目の前に広がっているのかと思いきや、そこはごくごく一般的な(どちらかというと中流以上の水準の)リビングルームだった。キッチン側には四人掛けのダイニングテーブル。反対側に置かれた薄型テレビを囲むようにソファという配置。 モデルルーム並みに手入れの行き届いた清潔なリビングで、ソファに寝ころんで大音量でアダルトビデオを見ていた男性こそ……僕が探し求めていた人物、グッドバイ・遺志留(いしどめ)支店の里見(さとみ)大数(ひろかず)所長だった。
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