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「いやぁ、ごめんごめん。そういや、キミが来るのは今日だったか。社長から連絡は受けてたんだけどなぁ。インターホン鳴らしてくれればよかったのに」
「鳴らしましたけど……」
「そぉ? 全然気がつかなかった。ちょっとお楽しみ過ぎたな〜」
血相を変えて飛び込んだ僕と、アダルトビデオの鑑賞真っ最中だった所長とは数秒の間無言で見つめ合った。
テレビの中からは、僕が最初に聞いた女性の呻き声が続いている。
呻き声じゃなくて、喘ぎ声でしたっていうオチだというわけだ。なんだこれは。
不可解な状況ですっかり混乱していたら、所長はビデオを一時停止にして僕をダイニングテーブルに座らせた。そのまま自分はキッチンに入って、カチャカチャとお茶の準備をはじめる。
「えっと、キミは朝飯前くんだっけ?」
「いえ、その、朝前です。朝前夕斗といいます」
「へぇ、不思議な名前だね。朝なんだか夕方なんだか」
「よく言われます……」
「俺は里見大数。この支店の所長だよ。これからよろしくな」
すっかり萎縮していた僕に、所長はニカッと屈託のない笑みを向けてくれた。
口は笑っていても目は笑っていないタイプじゃなくて、目も口も一緒にクシャッと綻ぶような笑い方だから、ほんの少しだけ僕の気持ちも緩む。
「ホイ、どーぞ」
「あっ、ありがとうございます……」
テレビの画面にはAV女優のあられもない姿(巧妙な一時停止能力のおかげで微妙にブレて局部は見えていない)が映し出されているけれど、ダイニングテーブルもそこから見えるキッチンも、どこもかしこもピカピカに磨かれて清潔そのものだった。
テーブルの上にはやっぱり竜胆の花が活けられていて、目の前に置かれた湯飲みからはお茶の良い匂いが鼻をくすぐる。
「緑茶、飲める? 紅茶の方が好きかい?」
「いえっ! 大丈夫です!」
慣れない旅と緊張と不思議体験で身体はヘトヘトだ。僕は早速お茶に口をつけた。
「……! 美味しい、です!」
「そりゃ、良かったよ」
正直、コーヒー党だから緑茶はあまり飲んだことがなかったけれど、疲れのせいか今まで飲んだどんなお茶よりも飲みやすくて美味しかった。
「あんまり高い茶葉じゃないんだけどさ、ちゃぁんと、最初に湯飲みをお湯で温めてから注ぐだけでも結構味は変わるもんなんだよ」
細やかな心配りを口にしつつも、所長は煙草に火をつけながらだらしなく僕の正面に座る。
綺麗に整った室内と、ボサボサ頭にヨレたワイシャツ。なんでこんなにチグハグなんだろう?
「これから先、お客様のお茶くみは朝くんにやってもらうことになると思うから、ちゃんと覚えてね」
「は、はいっ……!」
できるだろうか。
以前の職場ではお茶くみすら満足にできないことで有名だったのに。
「あー、えっと朝前クン?」
「ひゃいっ!」
「あはは、あんまり緊張しないでよ。コッチまで伝染するぜ。この支店にはこれから、キミと俺の二人だけなんだからさ」
「そっ、そうなんですか……」
いくら田舎の支店といえども、たった二人だけというのは珍しい。
なかなかの田舎っぷりだし、顧客も少なそうだから、僕が来るまでは一人でもやれていたのかな? いや、それよりも……。
「あの、所長……」
「ん?」
「この事務所には、所長しかいないんですか?」
てっきり、所長の他に事務員さんかそのお子さんがいるのだとばかり思っていた。そうでなきゃ、さっきの女の子の説明がつかない。
「そうだよ。ここには俺が一人だけ。まぁ、事務所って言うか店舗兼住宅って感じだけどね。俺は三階に住んでるんだ。二階が事務所。んで、一階が今日からキミの部屋」
「えっ……!? 僕もここに住むんですか!?」
予想が裏切られたことよりも、衝撃的な事実に耳を疑う。
「そりゃそうでしょ。毎日片道四時間近くかけて通勤できんの? 社長から聞いてない?」
「社長からは、寮を紹介してくれると……」
「それにしたって、異動の日までに寮の住所も教えてくれないなんておかしいだろ。不思議に思わなかったのか?」
「そ、そういえば……」
社長からは、支店の住所と所長の名前を教えられただけ。
遺志留支店はホームページにも乗っていない支店名だったし、同僚に聞いても首を傾げられるだけだったのでもうそれ以上自分で調べることを諦めてしまっていた。
「ま、好きに使ってくれて構わないからさ。掃除だけはしっかりしてね」
所長は煙草の煙を僕に向かって吹き出した。突然の煙たさに、思わず顔をしかめる。
「やっぱ、キミさぁ」
「げほっ……」
「だいぶ、混じってるね」
「まじ……?」
どういうことだろうか。
遠回しに、前の支店での失態を伝え聞いているのかもしれない。所長の薄茶色の目がジッと僕を射抜く。あまりにまっすぐな瞳にたじろいてしまい、つい視線を逸らして所長の肩口あたりを見たら……。
「ぅわっ……!?」
「どうしたんだ?」
反射的に腰が浮いた。
急に立ち上がったから、椅子が後方にガタンと勢い良く倒れる。
「しょ、所長……! う、うしろ……!」
所長の背中には、灰色の靄がぐるぐると蜷局を巻いて後ろからおぶさるような形でくっついていた。形は蜃気楼のように流動的で、目を凝らさないとすぐにまた見失ってしまいそうだけれど、確かにそこにある。
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