第3話 特定街区の飛び降り団地

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 男性とも女性とも、老年とも壮年とも判断のつかないような声色が、途切れることなくひたすらに訴えかけてくる。  鬼気迫る調子に一瞬で頭痛と目眩を覚えたけれど、隣に座る所長はいつもと変わらず平然としているから、どうやらこれは霊感を持つ僕だけに聞こえているらしい。 「しょ、所長……! 止めてください!!」 「あ、コレ一度再生すると止まらないんだわ」 「じゃあせめて、音量下げてください!」 「もう一番下の音量だけど? 今以上に下げたら聞こえなくなるだろ」 「そ、それでもいいですから……!」  僕には違うものが聞こえていると察してくれた所長は、音量をゼロにしてくれた。 「はぁ……」  ようやく訪れた静寂。  オマエガシネバヨカッタノニ。  未だに耳の奥でさっきの声が響いている気がする。 「どうだ? 朝くんにはなんて聞こえた?」 「あ、足音なんて聞こえませんでしたよ……」  この世のモノじゃない存在に当てられている時は、この世のモノである所長の呑気な顔にホッとする。  所長はいつもの顔全体をクシャッと歪める笑い方をして、僕に水を手渡した。 「どうも……」 「塩は今切らしてるから、コンビニでちょっと買ってくるな」 「ぼ、僕が行きますよ!」 「いや、車で待っとけよ。いま動いたらヤバそうだし」  や、ヤバそうとは一体……? 「なんか、車酔いと船酔いのコンボ決まってクリティカルで吐きそうって顔してるぜ」  所長はそう言い残してコンビニへと消えてしまった。  塩なんて、コンビニで売っているのだろうか。  調味料コーナーにあったかな……そういえば。 「ふぅ……」  バックミラーやサイドミラーで確認すれば顔色は分かったけれど、確実に別のモノまで見えてしまいそうだったので怖くてやめた。  目をつぶって、瞼の奥の暗闇だけを見つめる。  所長に気を使わせてしまったな……でも、僕がこうなるっていうのはある程度予想できた筈だから、塩と水の結界を張ってからファイルを再生してくれても良かったのでは……。  こういう時に、番場さんの台詞がよみがえる。  気さくでやさしいな所長と、ドライで事務的な所長。どっちが本当なんだろう。  そして僕は、結局ただの霊感レーダーなのかな。  もっと、社員として役に立ちたいのに。 「………」  ダメだな。  こういうネガティブな感情が恐怖を助長させるんだ。  僕は閉じた目を開ける前に、細く長く息を吐き出す。  苦しくなるまで吐き出したら、また深く吸う。  恐怖を感じると、呼吸が浅くなって脳に酸素が回らなくらしい。  何度か深呼吸を繰り返すと、ちょっと落ち着いてきた。  ソッと目を開けると、サイドミラーの中の冴えない僕と目が合う。  ちょうど、所長がコンビニから出てくる様子が見えた。所長は胸ポケットから取り出したスマホで、誰かと電話をしている様子だった。  通話時間は五分にも満たなかったと思う。  なんとなくその様子をボーッと眺めていたら、所長は通話が終わるなりスマホを思いっきり地面に叩きつけた。 「えっ!?」  いきなりの暴挙に、道行く人の足も止まる。  肩で息をしながらしばらく沈黙していた所長は、何事もなかったかのようにスマホを拾い上げると再びポケットにしまった。  よく見ると、地面に叩きつけたスマホは仕事用に支給された黒いスマホじゃなくて所長がプライベートで使っている赤いスマホだった。  ……と、いうことは仕事の電話じゃなくてプライベートの電話だったのかな。  僕の見ている方向からは、背を向けた所長の表情は見えない。  どう考えても尋常じゃない行動だった。  どちらかというと、いつも飄々としている所長の感情的な姿なんてはじめてだ。  振り返って僕の方へ戻ってきた所長をおそるおそる観察すると……。 「おまたせ〜」  いつもどおりの、所長だった。  不自然なほどに。 「丁度良いサイズがなくてさぁ。詰め替え用で大きいサイズなんだけど、ついでに輪ゴムも買ってきたからこれはこれから車の中に置いて仕事用として使おうぜ」 「は、はい……」 「塩っていうのはやっぱり強いんだよな。味覚を刺激するならなんでも良いって説もあるけど……砂糖や小麦粉じゃ格好つかないし。塩辛さっていうのはある意味恐怖における催眠状態からの気付けとか、現実に引き戻す力を持っているんだってさ」 「はぁ……」 「どうした? いつにも増して生返事だぞ」 「すっ、すいません……」  スマホ落としちゃってさぁ〜と所長が切り出すことを期待したけれど、まるでなかったことのように振る舞うものだから追求できない。  なんだろう……僕の見た幻だったのか?  霊感を通してもらってからというもの、僕は自分自身の目にあまり自信がない。  いつもは所長が隣にいて、幽霊か人間か教えてくれるけれど……肝心の所長自身が怪しいときはどうしようもないということに気づいてしまった。 「はは……」  僕の曖昧な愛想笑いで上手く誤魔化せたのか、所長は買ったばかりの塩の袋を切って僕に差し出す。  勧められるまま摘まんで舐めると、今までで一番強烈に塩辛く感じた。
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