満員電車を降りるまで

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 最近は少し肌寒くなってきたが、通勤時間帯の駅の中は人でごった返しており、寒いどころかむしろ若干暑苦しい。人のぬくもりを求める、という言葉はあるが、やはり体温というものはそれなりに暖をとるには役に立つのだろう。おしくらまんじゅうという遊びがかつてあったことを何となく思い出しながら、僕はホームに滑り込んできた電車の中に乗り込む。  車内はホーム以上に人口密度が高い。それでも僕は何とか人の合間をすり抜け、座席中央ぐらいに僅かに残っていた空間に身を滑り込ませる。ただ滑り込ませる過程で人の肩にぶつかってしまう。慌ててそちらに目をやって、謝罪の視線を送る。僕にぶつけられた人はちっ、と舌打ちをし、しかしそれ以上何も言わずに手に持っていたスマホに注意を戻す。朝の貴重な時間を僕なんぞに費やすのはもったいないのだろう。  車内アナウンスが次の駅がどこかを知らせている。僕はそれを聞き流し、ポケットの中からスマホを取り出す。ホーム画面に置いているスマホゲーム用のアイコンをタップする。いつもの画面が表示され、コンマ一秒の無駄もなく、僕はゲームを始める。  次の駅を知らせる車内アナウンスが何度か行われ、その都度人の入れ替わりが発生した。僕の行動はスマホゲームから何も入れ替わらなかった。  車内アナウンスが十数回目のアナウンスを行った時、僕はスマホゲーをやめた。自分が通勤に利用していた駅が近くまで迫っていた。もう少しで降りなきゃ、と反射的に思う。しかし数秒考えて、全く降りる理由がないということに気づく。  何故なら僕は自分が勤めていた会社をもう辞めているからだ。  辞めた理由は、自分でも分からない。  直接の要因は仕事上のミスで激しく怒られたことだが、働いている以上激しく怒られたことは何度もあるのでそれが原因の全てだとも思えない。だがとにかく僕はメールの誤送信というケアレスミスで激しく怒られた時、あ、もう駄目だ、自分の中で何かが切れた、と悟った。  会社に行けない日が始まった。最初は仮病と有給休暇を使って何とかごまかしていたが、有給なんてあっという間に使いきった。一時休職しようかとも思ったが、とにかくもう駄目だ、という観念だけが頭の中で渦巻いて、僕は破滅の日が来るまで何もしなかった。実際そうするしかなかっただろう。会社から連絡が来た。最初は携帯電話に。無視しているとその後に実家の母親に。母は僕がふさぎ込んでいることを知り、すぐに僕の家に来てくれた。 「あんた、顔、死んでるよ」  母が玄関から顔をのぞかせた僕を見た時の第一声がそれだった。僕の体たらくを見ると、すぐに何とか頑張りなさい、と言うかと思っていたが一言もそんなことは言わなかった。どれだけ自分がやばい状態になっているか、大分遅まきながらこの時に気が付いた。  母に退職したい、と伝えた時も反論はなかった。それどころか母は一刻も早く僕を会社から引きはがそうと頑張った。退職の意思を伝えるのも電話でやったぐらいだ。人事は僕の非常識極まりない行動に大分苛々していたようだが(当然だ)、最終的に最後に1日だけ荷物をまとめに行くだけで済んだ。  最終日、出社すると同僚は腫れ物に触るかのような感じで僕に接した。まるでいつ爆発するか分からない爆弾になったかのような気分だった。僕を叱った上司はわざわざ荷物をまとめている僕のところに来て「すまなかった」と申し訳なさそうに謝ってきた。僕は逆にびっくりした。いえ、僕が悪いですから、ともごもごした口調ながら何とか伝え、逃げるように会社を出た。それが6年間勤めた会社を辞めるときの僕だった。立つ鳥後を濁しまくりである。  疲れていたのだ、と今となっては思う。  会社を辞めたのも仕方のないことだった。あのままずっとあそこにいたら僕は腐った状態でそのまま歳をとっていた。どうせ高い評価をされていたわけでもなく、会社内での序列も底辺に近かった。たとえあそこに後何年いたとしても僕は無価値な役立たずのままだっただろう。  そして今、僕は次に行く場所を見いだせないまま、意味もなく満員電車に揺られている。  毎日午前7時にスーツ姿で家を出て、会社在籍時に利用していた路線に飛び乗る。今となっては行先なんてないのにただひたすら車内で時間を潰し、終点まで行ったら折り返して家の最寄り駅にまで戻り、家に帰り、改めて惰眠を貪る。  会社を辞めた当初は再就職活動のために必要だから乗り続けていた満員電車だが、いつの間にか乗り続けること自体が目的になってしまった。  お金はかかる。バカな習慣だとは自分でも思う。でも僕はこの習慣をやめられずにいた。降りてしまったら社会の流れから、今度こそ、決定的に、自分が取り残されるような気がしたからだ。    急停車します、ご注意ください。  このアナウンスはいつも実際にしてから行われるので、ほぼ意味がないと思う。僕は吊革につかまっていたから大丈夫なはずだったが、横に立っていた女性はスマホの操作のために両手を使っていたから駄目だった。彼女が僕に突っ込んきて、僕もそのあおりで横の男にそれなりの勢いで突っ込んでしまった。横に立っていた男に軽く会釈する。ちっ、と大きな舌打ちをそいつはした。僕のせいじゃないのに。横の女はごめんなさい、と僕よりもさらに申し訳なさそうにして頭を下げてくれたが。  急停車失礼しました、この先の駅で人身事故発生との連絡が入りました、とアナウンスが入る。車内に若干の不安と苛立ちが流れる。遅刻になるかどうかの瀬戸際だ。何故か関係のない僕まで体に力が入る。 「またかよ…」  横の男がぼそっと呟く。遅延の多いこの路線ではそう思うのもむべなるかな。僕はスマホで運行情報を調べる。 (あー、これは…)  間違いなく死亡クラスの人身事故だ。タイムラインにすごい勢いで投稿が流れていく。悪いことに色んな路線が絡むところで事故っている。この線も止まった、この線も動いていない。その手の叫びが次々と目に入る。 「死ぬんなら、周りの迷惑にならないところで死ねよ」  隣に立っている男がまた、ぼそりと呟く。かなり不謹慎な発言だが、車内にいる人の多くが言わないまでも同じようなことを考えているのは想像に難くなかった。  最近、駅のホームに立つたびに自殺のことばかり考えていたので、その言葉は水の中に入れるとその領域を広げていく墨のように、僕の中で広がっていった。  十数分後、何とか次の最寄りの駅まで電車は動いた。  だからと言って電車の運行状態がまともになったわけではない。とりあえずここまでは来てやったから、後は自力で何とかしろ、という旨のアナウンスが流れる。乗客の何割かがため息を吐きながら車外に移動する。  こんなにひどい事故は僕の出勤経験でも初めてで、駅のホームは人で溢れかえり、振替乗車を探っているのか誰もがスマホで検索を行っている。だが複数路線がまたがる駅で事故が起きているからか、人の山が中々減らない。振替乗車もままならないのだろう。 (どうしよっかなー…)  僕はぼんやりと考える。異常な朝に直面しているからか、もしくは遅刻という概念が現状の僕には問題にならないからか分からないが、いまいち頭がしゃっきりしない。  しばらくぼんやりと考えていたが、ふとうつむいていた顔を上げた時、とてもきれいな青空が見えた。意を決して僕は電車から降りて、ホームの人混みの中に紛れた。どうせ、もう絶対に行かなければいけないところはない。わざわざ電車に乗り続ける必要もない。ちょっと散歩しよう。  偶に人にぶつかりながらもホームを抜け、駅の改札も抜ける。改札外にも大勢の人がいる。どうやら入場規制が行われたようだ。イライラ顔の人たちを横目で見ながら僕は駅から離れていく。  歩く。ひたすら駅から離れるように歩く。春になったら道の両側で見事な桜を咲かせてくれる通りに出る。今は秋なので全く目立たないが、その分見物人が少なくて歩きやすい。  空気が秋のそれだったので湿度も低く、非常に気持ちがいい。こんな日に出勤するなんて全く以てナンセンスだ、と僕は凄く社会をなめている感想を心中で抱く。でもそれぐらいに運動日和だった。 通勤まがいの行動以外はほぼ家に引きこもっているので散歩程度の運動でも体がほぐれていくのが分かる。  コンビニの前を通り、神社の前を通り、動物のトリミング専門の店舗の前を通り過ぎる。少しずつ体が疲労を感じ始める。だがその疲労も心地よい。久しぶりに楽しい、ということがどういう心の状態なのか思い出せたような気がする。  ポケットに入れていたスマホが震える。取り出して画面を見る。父からの着信だった。瞬時に若干ながら上向き始めていた心が、再び沈む。どうせ現在ニートの息子だ、ろくなことは言われないのだ、と予想はついたが、僕は着信の方向にボタンをスライドさせて、耳にスマホをあてた。 「はい、もしもし」 「ああ、拓人か。今、大丈夫か」 「うん、何か用?」  微妙に質問にとげが入ってしまった、ような気がする。 「いや、特に用はないんやけど、心配になってな」 「あー…、とりあえず大丈夫だよ」 「そうか」 「そっちはどう? お母さんは?」 「お、おお。元気やぞ。お前のことを心配はしてはおるが、最後の最後には何とかなるわ、と楽観視しとるわ」 「お母さんらしいね」  そこで会話が途切れる。え、これで会話が終わるぐらいに何も言うことなかったのか。僕が呆気に取られていると、 「再就職のことやけどな」  父が会話を続ける。やはりこの話題か。もっとしっかりしろ、というお説教を覚悟して僕は身構える。 「あんまり、焦らんでええからな」 「…は?」 「人間、生きとると辛いこともえらいこともある。そんな中でも歯ぁくいしばって頑張るんがええことやと言うやつおるけど、お前は今まで6年も頑張ってきた。一般的には経歴に空白作るんはええことやないけど、それでも疲れた時はあんまり無理せんほうがええ」  父の、父らしからぬそれらの言葉を聞いて僕の脳はしびれたような感覚にとらわれた。  その後も続く父のありがたい説教に対して、僕は適当に相槌を打つ。電話を何とかやり終えて切った時にもまだ若干しびれは残っていた。何だ、何が起こっている、理解不能。それが僕の偽らざる感情だった。 『お前はいつ勉強するんじゃ』  唐突に昔の記憶がフラッシュバックしてくる。当時野球部の練習に全力を投入していた僕を父が快く思わず、食卓でお説教をしてきたときの記憶だ。 『いつまで経っても遊び惚けやがって』 『やることやれ』 『でなければ高校出たら就職せえ』 『高卒で就職するんやったら今の進学校になんかおる必要ないわな。今から電話して、先生に学校辞めるよう伝えてやるわ。それが嫌やったら大人しゅう勉強せぇ』  これらの言葉を酒の力を借りながら怒涛の勢いで喋った父に、当時高校一年生だった僕が太刀打ちする術はなかった。泣きながら野球部の退部届を書いた時の苦い記憶まで蘇りそうになって、慌てて僕は意識を現実に引き戻す。 「何だよ。今更優しくなりやがって」  スマホを見ながら呟く。父の不格好な優しさが非常に腹立たしく思えてきた。自分の罪で息子がこうなってしまったことに対して免罪符を貰いたいというようなその態度が、どこまでも気にくわなかった。  ひとしきり歩いてまた元来た道を戻った。すっかり忘れていたが、今の僕は通勤定期を既に作っていない。だから駅の改札を出たり入ったりするたびに余計な出費がかかるのだ。  少しずつ減っていく貯金のことを思い顔をしかめながら、また改札をくぐる。流石に40分以上も経つと入場規制は終わっていたが、駅の中は未だに落ち着いていなかった。あちらこちらで今日の出勤が遅れる旨をスマホで連絡している人がいるし、そもそも案内板に書いている電車の到着時間が遂に「○○分遅れ」ではなく「先発、次発」の表記になっている。 (今日のニュースのトップはこれに決まりだな)  そんなことを考えながら僕も自分の乗る電車のホームへと向かう。階段を上がった先にあるホームでは恐ろしいほどの人がいた。ホームドアもないこのホームにこれだけの人を押し込めるのだったらまだ入場規制していたほうが賢明だろうに、と冷や冷やしながら思う。  電車大変遅れてしまい申し訳ございません。先ほど起こった人身事故の影響で、動き始めはしたもののまだダイヤに大幅な乱れが発生しています。アナウンスが行われる。ホーム上の人たちはもうイライラしているというより諦めの境地に達しているのか、怒りよりも疲れきった顔をしている。  まあ、いいさ。僕は全く関係ないから。  若干の優越感を感じながらそう思う。いや、本当は優越感を持てる立場にいないのだが、今日に限っては遅延に振り回される会社員たちに対して勝ち誇ってもいいような気がした。最早どこが列になっているのか分からないが適当に人の後ろにつく。これでいつかは電車に乗れるだろう。僕はポケットからスマホを取り出して、待機態勢に入る。  電車が数本来て、いくばくかの人を回収していく。電車の中が既に一杯のため、あまり多くの人は乗れず、無理やり入ろうとする人たちも出てきたが、そこそこの割合で中の人たちの圧力で押し戻された。まさに地獄絵図で、あんなのにじきに乗るのかと思うと若干陰鬱な気分になる。  30分ほど、遅延に対して未だ騒ぎが収まっていない様をSNSで見ていたら、ようやく僕も次で乗れそうな位置取りに立つことができた。スマホをしっかりとポケットに仕舞う。混雑している車内でスマホをいじるのは危ないから、今回はしまわざるを得ない。やや前傾姿勢になって乗るための体勢を用意する。元サラリーマンの悲しき習性だ。  電車が滑り込んでくる。ホーム上待っていた人たちの視線がその電車に突き刺さる。もう待つのは嫌だ。乗りたい。早く職場に行って溜まった仕事を片付けたい。その気持ちがまるで矢のように車両に突き刺さっている。そんなバカな想像をしてしまうぐらいに全員の心が1つになっているのを僕は感じた。  電車のドアが開く。中には既にぎゅうぎゅうになるまで詰め込まれた人がいた。だがまだいける。6年の経験が僕にそう告げた。僕の前の人がドアに向かい、僕もその後ろについていってドアに向かった、その時だった。  歳の頃、30後半ぐらいの男が後ろからまるでタックルのように飛び込んできたのだ。スーツ姿のいかにも世間一般的な常識ぐらいは持っていそうな風貌の男だったが、順番も何もあったものではなく(元からホーム上混乱していたのでないようなものだったが)、乗れさえすればこっちのもんと言わんばかりの勢いだった。僕は弾き飛ばされそうになりながらも、何とか踏ん張る。  何とか男をガードしながら反射的にそいつをにらみつける。電車の待ちにおいて割込みされるほど鬱陶しいものはない。皆待っている中でそういうことをするのは単純に迷惑だし、何より圧倒的に卑怯だった。そんな奴に負けたくなくて、きつく睨みつけたつもりだが、僕のその行動に男は全くひるまなかった。 「があああああっ!!」  男はいきなり歯をむいて僕に対して威嚇の声を上げた。まるで人間のそれとは思えない、獣のようなその行動に、一瞬この男が噛みついてくるのではないか、と怯えた僕は隙を出してしまった。自分の勝利を確信したのか、男は怯えた僕を今度こそ横に押しのけ、車内に強引に入っていった。ううううううっ、と男は声を上げながら車内から押し返されそうな圧力に抗う。まるで何かのスポーツのようだった。何とか男一人分を入れられるぐらいのスペースを電車内の人たちは捻出できたようで、本当にギリギリのギリギリで男はその身を電車の中に入れることができた。遅刻を免れようと、普通の流れに置いていかれまいと、必死になった男の勝利だった。  電車のドアが目の前で閉まる。  男は窮屈な車内から僕の顔を捉えて、恐らく勝ち誇っているつもりなのだろう、にやにやした笑いを浮かべた。教科書に卑しさの見本と載せたくなるぐらい、いやらしい顔つきだった。  大丈夫ですか、と僕の近くに立っていた女性が聞いてきてくれる。他人から見れば相当ひどく押しのけられていたようで、女性の顔つきは若干強張っていた。あ、大丈夫です、お気になさらず、ともごもごした口調で言いながら、しかしそれでいて僕は彼女の方を本当の意味では見ていなかった。品がないこと極まりない、先ほどの男の顔が瞼に焼き付いて離れなかったのだ。  …僕も普通の会社員の時には、あんな顔つきになったことがあるのかもしれない。  そう思いながら僕はホームから出る階段のもとに向かう。階段を降り、改札を出て(同じ駅で降りるのには駅員に直接言わなければならないのでちょっと面倒だった)また駅から離れる。  今日はどんなに時間がかかってもいいから、のんびりでもいいから歩いて帰ろう。雲一つなく晴れ渡った空を見ながら僕は決める。無理に流れに乗る必要もないのだ。  
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