言葉の残滓

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「芥川龍之介って良いと思わない」  放課後の閑散とした図書室で、彼女は芥川龍之介全集を置いた。中学校の文芸部、二年生は俺と彼女しかいない。特別仲が良い。そんな関係ではない。斜め向かいに座っていて少し物理的空間がある。だから、それが俺に対する発言だったのか、それとも自分自身を納得させるために言った言葉だったのかは(わか)らない。でも、どちらでも問題ないし、問題ありそうでもある。 「芥川って国語の教科書に載っているやつ? 確か、蜘蛛の糸だっけ? 好きなの?」 「一番好きなのは、地獄変かな。自分の大事なものを犠牲にしてでも自分の理想を成し遂げる。って話」 「へー、何かを成し遂げるか。もしかして、芥川龍之介になりたいとか?」  彼女はちらりと俺の方を見ると、視線をテーブルに落とした。 「芥川龍之介かぁ。芥川龍之介って、以前、インターネットで見たことがあるんだけど、お風呂が大嫌いだったとか。私、お風呂はどちらかと言えば好きだから」  彼女は俺の質問に小さい声で答える。 「いや、芥川のような小説家になりたいの? ってつもりだったんだけど」 「あ、えっ? そ、そうだよね。そうだよね。お風呂と小説は関係ないよね」 「ま、友達だったらちょっと困るかもしれないけど」 「ま、まーね」  彼女は溜息を吐いた。眉の上で短く切り揃えられた前髪を軽くかきあげた。クリクリとした大きな目をパチパチと瞬きをした。少し下がった肩を軽く上下させた。  小柄な彼女は、病弱と聞いている。だからなのか、部活も時々、休む。本来ならば、帰宅部でも良いと思う。けれども本が好きだから、どうせ図書室に来るのならば文芸部に入っても大して負担は変わらない。という理由で入ったとのこと。 「宮沢賢治も好きなんだよね。銀河鉄道の夜も好きだけど、個人的にはやっぱり注文の多い料理店が良いな。どうして、食べちゃうんだろう。食べられそうになっちゃうんだろう。あれって、何らかの隠喩(メタファー)なのかな? とか考え始めると夜も眠れなくなるの」 「夜は早く寝たほうが」  俺が突っ込むと、彼女は頬を膨らませる。 「別に、本当に寝ないって意味じゃないって、食べるか、食べられるかの問題について悩んでいるって話だけってことで……」 「俺は、食べられるより食べる方になった方がマシかな」  彼女は軽く頷く。 「もし、他人を食べることで、元気になれるなら食べる方になってみたい。昔、食べた部位を吸収することで、能力を得ることが出来るって考えがあったの。食人族が人間を食べるのは、敵の記憶とか能力を奪い取るとか、そんな宗教的な考えもあった説もあるって。クールー病の影響もあって、その風習は無くなったらしいけど」 「クールー病?」 「そう。脳の正常プリオンタンパク質が異常プリオンタンパク質になって死んじゃうの。これは、病気ではあるけど、ウイルスとか細菌の影響じゃないから、治療が難しいみたい。もっとも、原因が確定しているわけじゃないけど」 「ふーん」  と俺は話を流す。 「クールー病はともかく、小説や漫画でもあるじゃない。相手を丸呑みにして能力を奪うような話。あれってそんな話だと思うのよね。でも、その考えが完全に間違いってわけでもなくて、血が無くなったら肝臓(レバー)を食べたりする漢方的な発想も原点にそんな話があるんだって」 「色々知ってるんだね」  俺が言うと、彼女は少しだけ早口になっていた口を閉じて俯いた。縮こまっていて、穴にでも入りたいって態度を見かねて、立ち上がる。「もっとラノベがあったら良いんだけどな」とか言いながら、読んでいたSFと世界地図の本を持つ。  クーラーが効いているとは言え、まだ夏が残っている図書室は蒸し暑い。室温の問題なのか、湿度の問題なのか、その両方なのだろうか。背表紙に貼り付けてある913と書かれた請求記号ラベルの本を本棚に戻す。額に薄っすらと滲んだ汗を右腕で拭いながら別の本を探す。  俺は何を読むかはあまり決めていない。以前は、面倒だから棚の右端から読もうとしていたこともある。けど、途中で読みたくない本を無理に読むのはストレスが溜まるということに気づき、インスピレーションがあった本を読むことにした。勿論、好みはある。一番好きなのはSFだが、必ずしもSFばかりを読むわけではない。SFもミステリーも文学全集も図鑑も読む。読みたくなくなったら止める。  それに対して、彼女は文学作品ばかりを読んでいた。ラノベを読んでいたこともあったけど、それはかなり稀だった。だから俺は、彼女がいつも真剣に文学作品を読んでいる姿しか記憶していなかった。  一度、訊いたことがある。どうして、文学作品ばかり読むの? って。 「別に文学作品ばかり読んでいるわけじゃないかな。でも、気づいたら文学作品を読んでいることが多いんだよね。多分、その他の作品は早く読めちゃうんだと思う。だから、一字一句追っていったりする文学作品に時間がかかってそればかり読んでいるように見えるんだと思う」 「でも、それだけ集中して読めるのって凄いよね」  俺が言うと、彼女は亀のように縮こまる。もう少し、偉そうな態度をとっても良いのに。運動は得意ではないかもしれないが、色々な小説を読んでるし雑学の知識も豊富なんだから。  一度、先生が授業に来なくて職員室に呼びに行った時に、彼女のクラスを覗き見たことがある。国語の授業で、彼女もよく知っている小説を題材にして授業をしていた。先生より詳しいと思われる彼女なのに、教室の片隅で襲われたヤドカリのように小さくなっていた。黒板を盗み見るようにしてから、リスのように手元を動かしていた。  偉そうに大きな声で間違いを答えている男子の代わりに手を上げて答えれば良い。そんなことを考えながら教室の横を通り過ぎていた。 「時々、猫になりたい。って思うことがあるの」  彼女の手元には『吾輩は猫である』がある。でも、その本を読んでその感想を抱くものだろうか。と考えながら質問を返す。 「猫、飼っているの?」 「飼ってみたいんだけどね……」  彼女は天井を見上げた。俺が思いっきりジャンプしても届かない白い天井。ところどころ薄汚れている。 「うち、猫飼ってるぜ。白と黒の。父親が拾ってきたんだ。会社で」 「なにそれ、猫の会社? 変なの」  彼女は少しだけ笑った。頬と口元を緩ませた。教室の中では絶対に見せないだろう表情をした。 「しかも、二匹。拾ってきたときは凄く可愛かったんだって。残念だけど、小さかったからその時のことは全く覚えてないんだけど」 「猫って、小さい時が一番かわいいよね。大きくても可愛いけど」 「飼えないの?」 「体に良くないからね」  彼女は小さい声で答えた。俺は立ち上がり、窓に近づく。外のグランドを見下ろしながら、野球部の練習を見る。放物線を描く野球のボールが後者の方に飛んでくるのを見て、誰かに当たらないのかな。と不謹慎なことを考える。  図書室の中には、俺と彼女の二年生二人と、一年生三人の五人しかいない。一年生たちは本も持ってこずに固まって雑談をしている。時々、大きな声で笑ってから、こちらを気遣うような視線を見せる。でも、すぐに同じような笑い声を出す。  三年生は誰もいない。文化祭は九月末にあるから、引退したってわけではない。単に幽霊部員として絶賛活躍中なだけだ。とは言え、いて欲しいわけではない。目の上のたんこぶがいないから気楽でいられる。  俺たち二年生は、図書室の一番奥のテーブルに座ることになっている。決まりってわけではない。習慣的なものだ。俺が窓際で彼女は室内側。窓際の方が良い席に思えるかもしれないがとんでもない。夏は日差しで暑い。冬は冷気が襲ってくる。文学作品の本棚に近いだけのテーブルだ。  突然、コホッっと彼女が小さく咳き込んだ。苦しそうに、テーブルに頭をつけそうなまで下げた。近寄って助けようという衝動を抑えて、「大丈夫?」と訊く。すると、彼女は返答をせずに顔を上げた。心配するなとでも言いたいのだろうが、片目を閉じて顔を歪ませていた。「今日は帰ったら」という言葉を飲み込んで一年生に視線を送る。  三人いるうちの一番快活な女子が、立ち上がって小走りで駆け寄ってくる。今までも何回も同じようなことがあった。その度に、保健室まで連れて行くのを手伝ってくれていた。  俺は、彼女らが図書室から出ていくのを眺めるだけだった。手伝おうとするものの、一年生の女子に男子禁制とばかりにキッと睨みつけられたからだ。保健室に付添で行きたい気持ちもあった。それでも、何もできない俺が役に立つことなど、文学作品の一文以上もありそうになかった。
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