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ピアノとともに歌い出す。
物憂くゆらめく声がゆったりと歌う。
荒ぶることのない包み込むような声が、深海へ沈むごとく空気を覆うと、会場に満たされるのはいくつもの細い溜め息だった。
文彦一人となった途端、漂う空気はまた変革を迎えていて、さきほどとはまた違うステージなのだと聴くものに思わせる。
そのインティメイトでありつつ、不安と安堵を交互に誘うような演奏が、文彦の特徴だ。
甘い優しさなのか、性質の悪い蠱惑なのか――
曲はそのまま、この前にセイと共に作曲した「それは決して愛ではない」へと続いていく。
破綻しそうでいて、まったくブレずにゆるりとリズムは鳴る。
低い讃嘆の声が上がって、終盤には拍手で満たされていた。
(良かった。でもまだ足りない)
そう、今夜も。
高揚して微熱に浮かされた体のまま、文彦がステージ袖へと下がると、すぐにセイが現れた。
「文彦」
「大丈夫だったろう? 俺となら――セイ。良かった」
「ん」
頬を紅潮させて、プレイの余韻を引きずって呼吸の速まっている文彦を、セイは眩しいものでも見るかのように眺めた。
サッとすぐ横を、背の高い人影が通って行って、文彦はわずかにそちらを見た。
目が合った瞬間に、バチリ、と何かが弾けるような気が文彦にはした。
(萩尾淳史)
人を凍えさすように冷たく、鋭い視線がそこにはあった。
無表情にさえ見える端正な横顔に、普通なら臆するかもしれなかったが、文彦はわずかに肩をすくめただけだった。
次の出演となっていた淳史は、しかしすぐに歩を速めた。
「笑ってミロール、だな」
「え?」
「シャンソンさ。ほらもっと上手に笑ってミロール、さ」
文彦は誰にともなく呟くと、安心させるようにセイに笑いかけ、セイをステージの外へと促した。
客席のほうへと行こうとした途端、ワッと文彦は人波に囲まれた。
「高澤さん」
「文彦ー」
女性たちからプレゼントを手渡され、握手を求められて、文彦は微笑を崩さずに対応した。
「ありがとう」
囁くようにそう言ったが、文彦はちらりとわずかにステージのほうを見やった。もう萩尾敦史たちのカルテットの演奏が始まろうとするところだった。かけられる声に応えながら、文彦が悩んでいると、後部のざわめきが止んだ。
「失礼」
有無を言わさない、低く腹に響くような声だった。
「こっちへ」
命令に慣れた声であり、人を制するのに慣れた態度であり、その大柄な体躯も彫りの深い顔立ちも、女性たちをやや怯えさえた。
文彦が連行されるかのように引っ張って行かれるのを、女性たちは遠まきに見ているのが精一杯だった。
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