人ゴミの中

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 その日は、祭りの日だった。  しかし、そのことを浅桐珠生(あさぎりたまお)が知らなくても、それは仕方の無いことだった。彼女は浮き世の出来事に背を向け、一心に受験勉強に励む浪人生の身なのだから。  期限の近い払い込み手続きのために、珠生が自宅から歩いて二十五分の駅前の銀行に向かったのは、お盆から一週間が過ぎた残暑厳しい昼下がりのことだった。駅に着く八分手前の場所で、遠くに響く太鼓の音を耳にした時、珠生は初めて今日が祭りの日であることを知った。  自宅にいるか、予備校にいるか、いずれにしても屋内に籠ってばかりだった珠生は、久々に温度と湿度以外で夏という季節に触れた気がした。だが、彼女が風情を感じる余裕を持てたのはそこまでだった。  駅に近付くほど祭りの見物客で歩道は混み合い、いつもは多少はみ出しても問題のない車道も、今日は踊り練り歩くパフォーマーたちのために通行できなくなっていた。  銀行への道が、やけに遠い。人ごみで駅前の方向に進めず、珠生がもたつき立往生していると、むこうからこちらへ、車道の幅目一杯に踊り手の一団がやってきた。  祭りの音とは、このようなものだっただろうか。笛に鐘に、それから特に、太鼓。数メートル先で鳴らされるそれは、のんびりと和の雰囲気愉しめるものではない。吹き物鳴り物が発生させた振動は、珠生の心臓を直撃した。  パチンコ屋の騒音や、クラブの轟音の中で平気でいられる人々には理解し難いだろうが、珠生は大きな音が苦手中の苦手だ。うるさいだの迷惑だのと文句を言っていられる余裕もない、音で体と脳みそとを存分に揺さぶられ、倒れ込んでしまいそうになるのだ。  珠生は普段、大きな音が鳴らされるような場所を避けて生活している。そもそも静けさというものを好んでいるから、賑やか過ぎる場所は近付きたいと思ったこともない。  それが、今日は油断していた。自分が苦手とするのはスピーカーで増幅された音や機械が発する騒音、そういったものだと思っていた。電気が関与しない生の音が、これほど自分の身体に強い作用を及ぼすとは。いや、生音の大きな音なら、過去にはブラスバンドの演奏を聞いたこともあった。その時はなんということもなかった筈だ。一年半以上勉強ばかりしているうちに、もともと細かった神経がますます痩せてしまったのだろうか。  周りに自分と同様の不調を感じていそうな人はおらず、老若男女、皆表情を輝かせて踊り手たちに拍手を送っていた。珠生は自分のひ弱さにうんざりしながら、だとしても祭りの最中に倒れるなんて御免だと、太鼓の振動から逃れるため、メインストリートから離れ脇道へ出ようとした。  しかし、いつもはそう長くもない筈のワンブロック分の歩道が、今日ばかりは人で充満停滞し、ちっとも前に進めず、壮大な道のりに感じられる。おまけに、パフォーマンスをより長く楽しもうと、向こうからこちらに移動してくる人もいて、珠生は前に進めないどころか後ろの方向に押し流されそうになった。  銀行まで遠回りになるが、一旦人の流れに従って来た道を戻り、そこから他の通りに移動するか。そう思って進行方向を変えると、なんとそちらからも多くの見物客が向かってきていた。図らずも、珠生は来る人とゆく人の流れがぶつかり最も混み合う丁度その場所に位置してしまっていた。  状況に対応しようと頭は冷静に働かせているつもりでも、珠生の気分の悪さは容赦なく徐々に増していった。数歩歩くのも辛く、いつ倒れてもおかしくなくなってきた時、ふいに珠生は視界に見知った姿を見つけた。その瞬間から、珠生は気丈にも今にも崩れ落ちそうな膝を叱咤し、シャッターの降りた店の柱の陰によろよろと近付いて行った。  むこうからは死角になるこの場所に隠れれば、彼に気付かれることはないだろう。そう、思ったのに…。 「浅桐さん?」」  珠生は癖にもなっていない舌打ちをしそうになった。呼ばれたのを聞こえなかった振りをし、何事も無かったかのように方向転換しようとした。しかし、体調不良せいで、動きが緩慢なっていたのが良くなかった。鈍重に足を踏み出したところで、再度声を掛けられてしまった。 「浅桐さん、だよね」  さっきはある程度距離が離れていたし、声もお囃子の音に紛れ少し遠く、聞こえなかったのだという言い訳も通じなくはなかっただろう。しかし、今度は駄目だ。一メートルも離れていない場所から、明瞭な声で滑舌よく問われてしまったのだから、観念して応えるしかない。 「……奥山君…久し振り…」  珠生自身、分っている。多分、高校時代の同窓、奥山佳春(おくやまよしはる)に向けた笑顔はかなり歪になった。別に、嘘や誤魔化しが下手なせいではない。ただ、すこし、太鼓の音に心臓がやられてしまっていただけだ。 「……大丈夫?」  高校の時から気の利く男子との評判が高かった奥山君は当然、一目で珠生の体調不良を見抜いた。  ああ、この如何にも心配してますって顔を見たくなかったから、隠れようとしたのに!珠生の眉間に皺が寄ったが、流石の奥山にもそれは気分の悪さの現れとしか見えなかっただろう。 「大丈夫、…その、ちょっと、音で気持ち悪くなっただけだから。少しじっとしてれば、すぐに…」  言葉を出すのも辛いんだ!さっさとあっち行け!という珠生の意図は通じたのか通じなかったのか…、どちらにしろ、奥山は珠生の思い通りになるただの爽やか好青年ではないのだ。 「浅桐さん、俺についてきて」  やにわに珠生の腕を掴むと、奥山は珠生に背を向け、人で混み合う中を先導し歩き始めた。  彼は、すみませんの一言もなし混雑した道を進んだ。他人を押しのけ強引に進めば怒り出す人もいそうなものだが、しかし、奥山のいかにも真っ当といったオーラに流されるのか、周りの人々はそれが当然であるかの如く道を開けた。  珠生の腕を掴む手も、力強くはあるものの押しつけがましいお節介というのではなく、頼もしい親切としか受け取れない掴み方で、高校時代から変わっていない様子の奥山に、珠生はいよいよ嫌気がさしてきそうだった。  冷房の利いた超大手ハンバーガーショップの店内に入ると、奥山は珠生を壁面テーブル前のハイスツールに座らせ、自分は注文カウンターへ向かった。  珠生は「アイスコーヒーでいい?」と聞かれ、頷いた様な気もするが、頭も体も未だ周りが認識できにくい状態で、自分や他人のなにもかもがぼんやりとしか受け取れなかった。  はい、と手渡されたストロー付きのコーヒーをお礼も言わずに受け取り、のろのろと啜れば、アイスコーヒーの冷たさと苦み、薫りがじんわりと珠生の脳みそに風を送ってきた。いつも不味い不味いと思っていた安価な水っぽいコーヒーが、この時ばかりは何よりの助けになった。  人心地ついてようやく、珠生は久方ぶりに、隣の席に坐る奥山の存在をまともに認識した。彼の前のテーブルの上には、珠生のと同じサイズ、形のカップがあった。中身もきっと、珠生に渡したのと同じなのだろう。そんなどうでもいいことは考えられても、同窓生と会話をしようという気分になるまでは、あともう数十秒を要した。 「コーヒー代、払うよ」  まともな言葉も出せるようになった珠生は、手持ちのトートバッグから財布を取り出そうとした。しかし財布はバッグの底の方に潜ってしまったのかパッと見では見つからなかった。様子を見ていた奥山から、「そんなの良いから、もう少し飲んだほうがいいよ」と少々強い口調で窘められ、確かに今の体調でバッグから財布を探し出し、そこから百円と消費税分の硬貨を取り出すのは難しいと思われた。珠生は大人しく奥山の言うことに従い、トートバッグの中を漁るのをやめた。  「俺の、口付けてないから」と奥山が自分の分のコーヒーを差し出してきたのをストローを口に付けたまま無言で首を振り断った珠生は、ストローから口を離すと、やっと「ありがとう」と素直にお礼の言葉を言った。心の中では親切にしてくれたのが彼でなければ、もっと純粋に感謝できたのだろうかなどと思いながら。 「あ、うん…」  珠生の内心を察したか、奥山は「どういたしまして」とははっきり言わず、彼にしては珍しく言葉を濁した返事をした。そうして、お礼など言われなかったかの様に話しだした。 「今日、人凄いな。イベントがあるなんて知らなかったから、来てみて驚いた」 「そうだね」 「浴衣着てる人とか多かったから、どっかでなんかあんのかとは思ったけど、まさか駅前で昼間からとは思ってなかった」  珠生は無言で頷いた。 「さっき看板見たんだけど、踊りで有名な地方のグループとか来てるらしいよ。なんか、ここら辺でやる盆踊りとは全然違って、めっちゃプロっぽいの」  奥山は特に返事を必要としない話ばかりを続けた。気遣われているのが有り難いが、それをしてくれているのが彼だと思うとなんだか少し煩わしくもあった。 「奥山くんは、今日は何してたの?祭りがあることも知らなかったのに」  コーヒーと、それから…奥山のお陰で、珠生は大分落ち着いた。もう人の話だって普通に頭に入ってくる。珠生は奥山に対し、一般的に知り合いによくしそうな類の質問をしたのだった。 「これから友達と映画見に行く約束があって」 「えっ……行かないでいいの!?」  珠生は猫背にしていた背中を伸ばし、店の壁に備え付けられたアナログ時計に顔を向けた。 「全然大丈夫。早めに家出て、本屋にでも寄ろうと思ってたから」  珠生は奥山に不義理をさせてはいないと知り、ホッとした反面、どこかがっかりさせられた気分になった。  涼を求めてだろうか、十数人の若者の集団が店に入って来た。女性は皆、浴衣。男性もちらほら浴衣を着ているのが見えた。店の一階はその一団によって一気に賑やかに…落ち着かない空間となった。 「もう大丈夫だったら、二階行こうか」  自分のカップを持った奥山が、席から立ち上がった。奥山の見立て通り、既に珠生の容態は十分回復していて、階段を一階分上がるのになんの問題もなかった。……しかし、そうであればこれ以上二人ともここに居る理由もないわけで、解散してもいいのでは…そうは思ったが、まだ一口もつけられていない奥山のコーヒーの存在に、珠生は言葉を飲み込んだ。  階段を上がった先の二階は一階よりも空いており、室温も三度以上低く感じられた。奥山は迷いもせずに窓に面したカウンター席を選んだ。あまり正面で向かい合いたくない人物であるから、珠生は助かった気分になった。それとも、奥山の方も珠生と同じ気持ちなのだろうか。 「上から見ると、ますます人多く見えるな。特別大きくもない街で、よくこんな集まったよ」  硝子の向こうを見下ろし、奥山は言った。そうして続けて「ちょっと前まで、人ごみって、人がゴミみたいに見えるって意味だと思ってた」と事も無げに口にした。  奥山は高校時代にも、たまに毒の籠った物言いをする男子だった。校内のイベント事である球技大会や合唱大会において一人よがりに熱血する担任教師を冷笑したり、応援に駆り出された県大会で敗退し涙する部員を横目に敗因を無慈悲に分析しだしたり。  珠生自身も毒舌と周りから評されるタイプだが、その彼女から見ても、奥山は他人に対しかなり冷淡で厳しいところがあった。本人はただ、無邪気なだけのつもりかもしれない。しかし傍らで発言を聞いてしまった者…珠生としては、なにか彼が少々恐ろしい人のように思えてしまう。  不思議なことに、奥山の人柄に冷たいとか容赦ないといった感想を持っていた生徒は、珠生の仲間内に限っては珠生以外誰もおらず、奥山の評判は専ら「爽やか」「親切」といった好青年然としたもので、珠生の奥山に対する人物評は誰にも相手にしてもらえなかった。  要領がいいのだろうな、と思う。人に表向きの良い所を印象付け、あくの強い部分は目立たせない。そういった人は、きっと何もかもうまくやってのけるのだろう。ガリ勉とからかわれた自分が落ちた大学を、努力の影を少しも見せずに合格したり……。 「浅桐さんは、目立つよな」 「へ……」  奥山の些細なたった一言にぐるぐると思考を迷わせ、ついには逆恨みにまで至りかけていた珠生に、奥山は前振りなく突然話を切り出した。 「こうやって上から見下ろしてもすごい混雑してたのに、すぐに浅桐さんってわかったもんな」 「…挙動不審だったってこと?」  ついさっきの状態を思い出し、珠生は、しょうがないじゃないか、気分が悪かったのだからと文句を言いたくなってしまった。 「そういうんじゃないよ」 「格好が変とか?」  珠生は自分の胸元見た。今日の珠生の服装は、上半身は小さめのプリントが入ったTシャツ、下半身は平凡なデニムで目立つ要素これといってない。だとしたら、髪型か、体型が悪目立ちしているのだろうか。 「そういうんじゃなくて。形じゃなくて、雰囲気?」  前述の通り、毒舌で通っている珠生は、正面切って聞いた。 「けなしてるの?」  珠生に問われた奥山は間髪置かずハハハと笑った。こういった動じない性質も、彼を純粋な好青年と思えない所以だ。 「けなしてない。でも…褒めてもいないのかなぁ。なんか、高校ん時もそう思ってたの思い出して…純粋な感想、かな」 「それを言われても…それに、」  奥山が珠生に気付くより先に、珠生の方が彼の存在に気が付いていた。「目立つ」というのはそちらの方ではないか…そう言おうとして、珠生は途中でやめた。 「『それに』?」  奥山は珠生がうやむやにしようとした言葉の先を、流させずに聞いてきた。 「それに………できれば目立ちたくなんてないよ。変なことに巻き込まれたくないし」 「そっか。でも、無視とかされたら、それはそれで嫌じゃない?」  それは確かにと、誤魔化しに返された意見ながらも珠生は同意した。  二階の窓から表通りの混雑が解消されたのを確認すると、奥山は「そろそろいっか」とそれまで殆ど残していたアイスコーヒーを一気にあおった。おそらく、商品名に「アイス」とはついていても、もうそれほど冷たい代物ではなかっただろう。  店内に設置されたゴミ箱に紙コップを捨て、二人が店から出ると、駅周辺は普段とそう変わらない様子になっていた。  しかし、目の前をちらほら浴衣姿の通行人が横切るし、駅前広場のスピーカーからだろう祭囃子も聞こえてくる。やはり、今日は今年最後の夏祭りなのだ。 「なんか、ごめんね。本屋寄ってくって言ってたのに」  生温い屋外の空気に腕を撫でられた拍子に、珠生は急に奥山の中止になった予定を思い出した。 「全然いいよ。見たい本が決まってたってわけでもないし。………浅桐さん、去年と同じ大学受けるの?」  それまで現在の珠生自身について何も尋ねてこなかった奥山が、もう別れようかという段になって、ついに聞いてきた。珠生は僻み交じりに余計なことを言ってしまわないよう、できるだけ短い返答を心掛けた。 「うん…。そのつもり」 「そっか。じゃあ、楽しみにしてる」  また心にも無い事を。そう思いつつ、珠生が奥山に愛想笑いを向けると、奥山は以外と真剣な顔をしていた。冷淡だと思っていたが、案外昔の知り合いには愛着を感じる性質なのだろうか。 「じゃあ、わたし銀行に用事があるから」  なぜか妙に居た堪れなくなって、珠生は早口で告げた。奥山はあっけなく「うん、じゃあ、お大事に」と言ってなんの未練も無く、珠生に背を向け去って行ってしまった。  珠生も銀行に向かう道を歩き出したが、十歩も行かない所でちらりと後ろを振り返り、遠くなった奥山の背中を見た。  うん。やはり彼の姿は一目見ればすぐ他と違うとわかる。奥山が何故他の誰にも言われたことが無いのに珠生を「目立つ」と思うのかなんて、わからない。しかし、珠生が奥山を「目立つ」と思う理由ははっきりしている。  好きだからだ。だから、倒れそうになっている情けない姿なんて、出来れば彼に見せたくなかった。冷淡だなんだと彼を責めたくなるのも同じ理由で、自分も彼に冷たい目で見られているかもしれないと思うと、悲しくなる、それだけなのだ。  映画の約束をしてる友達って、多分、彼女なんだろうな。会って話せた熱が落ち着いてきた途端、そんなことを考え気落ちした。けれど、同じ大学に入ることを「楽しみにしている」と言って貰えたことを反芻し、なんとか気持ちを浮き上がらせる。別に奥山が目当てで大学を選んだわけではない。そうではないが、彼の一言で下がりかけた受験勉強のモチベーションが少しでも上がるのなら、それはそれでいいではないか。  太鼓の音が、遠くで鳴り響いている。近すぎては珠生の体調を悪くさせた原因も、いくらか離れた場所で鳴っている分には、ひ弱な身にも適度な祭り気分を味わわせてくれるのだった。
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