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眼下、校門前は酷く騒がしい。普段屋上にいるのは昼休みくらいだから、余計にそう感じてしまうんだろうか。
「何で、卒業式出なかったんですか」
背後からかけられた声に振り向けば、見慣れた顔。不満げにへの字に曲げられた唇は、ひたひたと濡れたような黒い瞳が印象的な、その大人びた容姿とは少し不釣り合いで何だかおかしい。
「知ってるだろ、人ごみ苦手なんだ」
他人の呼気やら何やらで気温の上昇した体育館という場所が季節関係無く苦手で、全校集会や朝礼さえ、高校生活で一度も行ったことはない。成績は中々に優秀だったおかげでそれに関して文句を言う人も何時しかいなくなった。今日の卒業式も、誰も参加するとは思っていなかったんじゃないだろうか。たった一人、目の前のこの後輩以外は。
「俺、先輩も聞いてくれるんじゃないかと思ってピアノの伴奏頑張ったのに」
「聞いてたよ、ここで」
嘘ではない。実際、式の行われている体育館の斜め隣に立っている校舎のB棟からは、彼の演奏する力強いピアノの音がよく聞こえた。
「卒業生への証書授与の時にピアノ伴奏出来るの、ずっと待っていたんです。全校生徒の前で先輩への気持ち込めながらピアノを弾きたいなって思って」
「私心か?」
思わず笑うと彼はその唇を更にへの字に曲げた。
「ダメですか?」
「そういうの良くないっていうような奴はまず卒業式に出るだろ」
本当は知っていた。彼がどんな思いで俺の為にピアノの演奏をしようとしてくれていたか。それが他の卒業生のことを完全に無視してしまっているのものだということも。卒業式に出るつもりも無いのにわざわざこんなところまで来たのは、そんな彼の思いを無下にはできなかったからだ。
「先輩、本当は知ってたんじゃないんですか、俺がどういう気持ちでピアノを弾こうとしていたか」
彼は徐々に俺に近づき、いつものように手を握ってこようとする。それを何気ない風に交わして、もう一度校門の方へと向き直った。更に機嫌が悪くなったのをぼんやりと感じながら、それでも俺は彼の方に向きはしない。
「何で」
「あんま隣来るなよ。俺別に小さいわけじゃないのに、お前に並ばれると小さくなったみたいな感じになる」
俺の頭の位置にちょうどぶつかる彼の肩にもたれかかるのが本当は好きだった。
「手、握るのもダメですか」
「ダメ。お前ピアノ弾いた後何でか分かんないけどやたら手熱くなるだろ」
まあ、俺の冷たい手にはちょうど良いけど。
「そもそも何でお前ここに来たわけ」
「はじめて先輩と会ったのが、ここだったから」
忘れるようなタイプではないことは知っている。けれど、そう答えてくれたことがやはり嬉しい。
「見てみ、校門から皆一斉に出ていく」
ベージュのブレザーが小さ目の校門から一斉に出て行こうとするその様子を見ながら、やっぱりあの中にいなくて良かったと思う。
「高校って小さいよな。皆ああやってこっから出て行って制服脱いだらもうその辺にいる大人と変わりやしないんだ」
大通りに面した校門から出ていく卒業生たちは、徐々に人ごみに紛れ、通りすがりの人と変わらなくなっていく。
「俺、四月から東京の大学に行く。だから実家は出て一人暮らしになるんだよ」
「え」
知らなかった、どうして、そんな気持ちが分かりやすすぎるほどに声に表れている。当然だ、教えなかったんだから。同じ想いを抱え、そして寄り添いあうような関係だった彼にそれを教えなかったのには、俺なりの理由がある。
「どうして……どうしてそれを俺に教えてくれなかったんですか? 俺たち、恋人同士じゃ」
「そうそう、恋人同士のままでいようと思うならやっぱ告げるべきだよな、こういうこと」
「ままでいようと思うならって」
「別れようぜ。上京したら遠距離になっちまうし、それに向こうの大学でもっと色んな人と知り合うだろ」
「俺のことなんか、考える暇もなくなっちゃうってことですか」
「お前にしては珍しく察しがいいな」
そこではじめてまともに彼の顔を見てにやりと笑って見せた。きらきらと濡れたように光る彼の黒い瞳は、何の光も映し出していなかった。
「じゃ、ごっこ遊びはここまでってことで」
そう告げて屋上から出て行くために非常階段へつながるドアを開ける。ドアノブを触った瞬間、握りしめていた手のひらに爪の痕がついて、そこから出血していることに気が付いた。気付かれなくて良かった。もうこのドアを閉めたらお終い。そう決めて、階段へと足をのばし、後ろ手にドアを閉めようとした瞬間だった。
「だったら何で、わざわざここで俺のピアノ聞いてくれてたんですか」
「……気まぐれだよ」
「嘘です!先輩、ここで俺と初めて会った時に言ってたんです。ここは音楽室からピアノの音がよく聞こえるんだって、お前が弾いてたんだなってそう言って!」
あぁ、そんな細かいことも覚えていたのか。そうだ、ここでいつも聞くピアノはいったい誰が弾いているんだろう。そう思っていたら、まさかのご本人登場だった。選曲がいつも俺の好きな曲ばかりで、趣味が合うな、どんな人が弾いているんだろうか。そう思っていたから会えた時にはらしくもなく俺も喜んでしまったものだ。
一度彼と話せば、その真っ直ぐさにすぐ心惹かれた。頭はいいけど、団体行動の出来ないヘンな奴。そう周りから見られていたおかげで、まともに話せる人もいない高校生活の中で、唯一素直に話しかけてくれた人物。一度も言ったことは無かったけれど、本当はずっと心の支えだった。
「わざわざこの場所で、俺の弾くピアノを聞きながら俺のこと待っていたのはどうしてですか?」
言うな。違う、出来れば傷ついてくれ。俺のことなんか、二度と思い出したくないと思う程に。一年後にはお前も高校を卒業して、世界が一気に広くなるんだ。こんな、高校生活三年間でまともに関係を築けた人間がお前一人みたいな俺とは違って、真っ直ぐで明るいお前ならもっともっと。こんな俺のことを引きずって、その世界を狭めるべきじゃない。だったら、今のうちに、傷が余計に深くならないうちに別れた方が良いんだ。
「自惚れんなよ、最初から遊びだ」
精一杯震えないように絞り出した声は情けなく掠れていた。出来る限り強く、力を込めて放ったドアが大きな音を立てて閉まる寸前、彼の小さな声が聞こえた。
「俺にとっては、本気だったのに」
知っている。俺にとっても本気だったよ。あの声の震え方、きっと泣いているんだろう。それを慰めてはいけない。嘘だと言えたら、いや、そんなことも考えてはいけない。階段を一段一段降りるたび、視界がぐにゃりと歪んでいくような感覚におそわれる。けれど外にでて、あの校門を潜り抜ければ、もう俺もそこら辺にいる人の群れの一部になるのだ。そうして人ごみに紛れて、今のままではいられなくなるその前に。俺たちは……少年のままでは、いられないんだ。
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