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わずかほどの
その日は朝から散々だった。
あまり覚えてないけど夢見が悪くて、起きたら寝坊して遅刻スレスレ。
慌てて家を出て走ってたら、駅構内を大学生の集団が前をチンタラ歩いてるし。
まぁ僕だって学生だったからね、友達複数人といたら変な浮かれ感出て周りが見えなくなるのは分かるけどさ。
でも今朝はすごく焦ってる。舌打ちせずにいた事を褒めて欲しいくらいだ。
途中一人とぶつかったけど。僕は『すいません』なんて言わないからな。
ボサっとしてる方が悪い。
向こうも顔は見なかったが何も言わなかったし。
まぁいいや。
……それで何とか出社時間ギリギリに滑り込んで。先輩から少しお小言貰ったけど許容範囲。
でもまぁ、いつもよりは色々と足りないわけだ。
気力も、時間も……精神的にも。
𓆛𓆜𓆝𓆞𓆟
「お。瀬上君……って。大丈夫?」
「え、はぁ」
退勤時間前に声をかけてくれたのは、同じ部署の先輩だった。
茶九 華子(さきゅう はなこ)。新人である僕の教育係的な人だ。
「顔が、っていうか目が死んでるよ?」
そんなに歳変わらないように見えるけど、とても優秀な人だ。その人柄も有能なのに穏やかで、さしずめ『良い先輩』『憧れの上司』って人だ。
仕事の出来る女性って失礼ながら、ヒステリックなイメージがあったんだけど彼女はその真逆。
滅多に怒りを外に出さないし、新人がどんなミスをしても責めて問い詰めるより先に対処を教えてくれる人。
一方で。その性格と愛らしい容姿が裏目に出て、セクハラやパワハラの的になりがちらしい。
しかし、そこで柔和だが毅然とした態度で臨む姿が女子社員人気が高い理由だろう。
当然、男の僕も先輩を尊敬している一人だ。
「今日はちょっと疲れちゃったかな」
「あー、すいません。少し体調が、でも大丈夫です」
ここの所忙しかったのと、プライベートでも色々考え過ぎたからかも。
つまり自己管理の範囲内だ。
「あらまぁ、それはいけないわ」
形の良い眉を顰めて彼女は心配そうに言った。
「今日はもう帰りなさい」
「え。あ、いえ……まだこれ終わってなくて」
上司から言われた仕事がまだ終わっていない。むしろ今日は少し残業をしようかと思っていたんだけど。
その旨を言葉を選びつつ話せば、茶九先輩はデスクを一瞥した。
そして小さなため息をついた後に、おどけた様子で微笑んだ。
「全部明日でいいやつじゃあないの……明日あたしも手伝ってあげるから。今日は帰んなさい」
「でも……」
「ちゃんとあのハゲには言っとくから、ね? 」
あのハゲ、とは仕事をふった上司のことだ。
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