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 夕陽に代わるには、太陽はまだ余裕があった。俺は闇雲に走り、息が切れて足を止めると――3線道路の御堂前にいた。  ――ザワ……ザワ……  辺りの木々が梢を揺らす。御堂に続く小径(こみち)の方から、ふと良い香りがした。ふくよかで甘く、それでいて凛と気品がある――。  手招きされている気がする。がむしゃらに駆け回った疲労感を、吸い取って癒してくれそうな、奇妙な錯覚に包まれた。  ――サク……  踏み出した下草は、湿り気を含んでいる。御堂の先は、市内を走る川の支流が通っていた筈だ。台風の増水からしばらく経ち、もう水位は下がっていた筈だが、それでも慎重に進まなければ。 「あ、わぁ……!」  思わず感嘆が漏れた。  御堂裏には、大きな蔓植物が根を張り、葉を隠す程一面に、白い5弁の花を付けていた。香りの元は、この花達だった。  薄暗い空を覆わんばかりに、頭上に広がる白い花々は、まるで間近で輝く星空のようだ。あまりの美しさに、しばし呆然と見上げていた。そして、もっと近くで可憐な花を見ようと、一歩進んだ。  ――ズルッ! 「わああっ?!」  突然、濡れた下草に足を取られた。派手に尻餅を付き、身体が滑り落ちる感覚に、咄嗟に周りの草を鷲掴みにした。掌や指に鋭い痛みが走る。何ヵ所か切れたのだろう。 「うわ……」  右の足首から先が、宙に浮いている。生い茂る下草で気付かなかったが、御堂裏は崖になっていたのだ。  サラサラとせせらぐ水音が、やけに白々しい。反応が遅れたら、崖下の川に落ちていたに違いない。今更、冷や汗が噴いてくる。 「……あの子は、上手くいったのに」  細い、鈴のような女の声がした。  本能が「探すな」と告げている。けれども、瞳は周囲を素早く見回し、視界の端にヒラリと揺れる白い影を捉えてしまった。  蔦に身体を絡めた女が、満開の花の中にいる。日本人形のような漆黒のストレートヘアに、白磁みたいな冷たい質感の肌。くっきりとした二重で切れ長の目を細め、真っ赤な唇が弧を描く。物の怪の類いだと思うのに、美しさだけが際立って、目が逸らせない。 「お前も……おいで……」  微笑んだまま、女は両手を伸ばしてくる。薄く透けるような細長い指先が、ゆっくりと近付き、目の前に迫ってきた。  濃密な甘い香りを纏ったひんやりとした冷たい空気が、スウッと頬を撫でた。 「う――わああああ?!」  どこから発しているのか分からない自分の叫び声を聞きながら、倒れた姿勢のまま腰を引きずって草の上をずり上がり、御堂の手前まで後退る。暮れた藍色の空に周囲の木々が沈み、無数の白い花達だけが浮かび上がっていた。 「おいで……」  風もないのに、カサカサと花が揺れる。寂しげに細かく震えている。 「ここに……おいで……」  もう女の姿はないのに、視線を感じる。キンと耳鳴りに似た高い声が、直接頭の中に響く。  怖い。怖い。だけど、もっと怖いのは、美しい幻が瞼に焼き付いて離れないことだ。そして、逃げ出そうとする身体に反して、気持ちはもう一度近付きたい――あの指先に触れてみたいと思い始めていることだ。 「……」  ダメだ、離れなくちゃ。重い手足を無理矢理動かして、湿った地面を更に後退る。掌の傷口が小石に当たり、痛みが走る。お陰で、どうにか正気が保てたのかもしれない。  花が見えなくなるまで十分に距離を取ってから、ようやく背を向けて立ち上がった。手足、いや背中も含めて、泥だらけになっていた。  走る気力もなく、フラフラと小径を引き返し、3線道路に辿り着く。膝に手を当て、大きく息を吐く。まだ花の香りが身体に巻き付いている気がする。  側の街灯が、ジジッと音を立てて光を宿した。顔を上げると、山の端には暗い雲が集まり、既に飲み込まれた太陽が残り火のように赤銅色の光を滲ませていた。  どうやって帰り着いたのか、記憶にない。  しかし、その夜から俺は熱を出し――結局登校できないまま、朝陽小から転校した。
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