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異形、掴み難き事
10月のとある日。
峰岸善衛は、郊外にある多目的ホールへと向かっていた。芸術の秋と洒落込んで、そこで開催されるピアノのコンサートを聴きに行くのである。演奏者はそこそこ有名なピアニストで、演目も峰岸の好きなものが多かったため、奮発して高い席を買っておいた。
会場は、最寄駅から少し離れた静かな場所にあり、歩くと20分程かかる。余裕を見て、早めに家を出たため、時間はまだ十分に余裕がある。峰岸は歩くことにした。
初めて訪れる場所なので、地図アプリを起動して歩き始める。見知らぬ町の風景を眺めながら散歩も兼ねてぶらぶら歩いていくのも、なかなかに楽しい。
5分も歩くと、賑やかな駅前の風景から段々と住宅の姿が多くなり、緑も多くなる。一方、最近郊外で散見されるようになった空家もちらほらと目に付く。そういう風景をぼんやり眺めてるだけでも、何となく世の中の動きの一断面が見えるようにも思えてくる。
アプリの指示に従って歩いていると、住宅街の一角にぽつんと現れた小さな雑木林のような所に出た。道路からは外れているようだが、このままここを突っ切るとショートカットになるということか?とりあえず、峰岸は薄暗い林の中に入って行った。
"対象の座標:X12465.76 Y25931.63。「ホットスポット」への誘導完了"
小さな雑木林だと思ったが、以外に奥行きがある。少し入ると、生い茂る木々が日光を遮り、あたりはたちまち暗くなる。道は、かろうじてライト無しで歩ける程度の明るさである。
"対象の座標:X12487.36 Y26013.62“
“幽体の座標:X12572.19 Y26219.43”
“両者の距離:13.9メートル"
あたりは、ひんやりとしていて寒いくらいである。獣道のような暗く小さな道を進んでいると、気分も重く沈んでくる。
"対象の座標:X12500.01 Y26082.15“
“幽体の座標:X12559.75 Y26189.92”
“両者の距離:7.7メートル"
何やら前方に丸い形の構造物が見えてきた。段々近づくにつれて、それの詳細が暗闇の中に浮かび上がる。
「!」
それが枯れ井戸であることに気付いた瞬間、峰岸は一気に不吉な気分になった。
"対象の座標:X12520.47 Y26100.35“
“幽体の座標:X12540.90 Y26153.33”
“両者の距離:1.6メートル"
「ここは、とにかくまずいな」
一刻も早くここを抜けなければ、と気持ちが焦る。峰岸は、一層脚を早めて大きく踏み出した。
"対象の座標:X12530.93 Y26124.18“
“幽体の座標:X12530.93 Y26124.18”
“座標一致、コンタクト完了。座標一致、コンタクト完了"
途端に、峰岸の両肩に、何かずっしりと重たいものがのしかかった。今まで体感したことのないような、重苦しい脱力感が襲いかかる。思わずよろめいた峰岸は、傍にある立木に手をついて何とか身体を支えた。
心臓の鼓動は一気に早くなり、冷や汗が流れ始める。ふらつく頭で必死に思うのは、とにかくここから逃げなければいけない、それだけである。
地図アプリをもう一度確認すると、目的地は全然別の方角である。何故、こっちに来てしまったのだろう。とにかく、今来た道は一本道なので、そのまま引き返せば、林の外には出られそうである。よろめく足を引きずり、立木につかまりながら、峰岸は歩き始めた。
幸い、迷うことなく、林の外に出ることはできた。辺りは、まだ夕暮れ時の残光にうっすらと照らされている。もう一度アプリで確認すると、目的地には、あと10分弱で着けそうである。林の出口のあたりの木に手をついて暫く呼吸を整えた峰岸は、ゆっくりと歩き始めた。
相変わらず身体はずっしりと重い。気分も重く沈んで、脚を引きずるように動かすのがやっとだ。だが、どうしても会場に行かなければ、という気持ちに峰岸は支配されていた。折角とったチケットを無駄にするのも嫌だ。それ以前に、とにかく椅子に座りたい。
ときおり民家の壁に手をつきながら、よろよろ歩んでいると、突然峰岸の携帯が鳴った。
(誰だ、こんな時に……)
画面を見ると番号は非通知である。こんなタイミングで着信した非通知ナンバー?誰だ?気味悪くてとても出る気にならない。自分の中で、その電話に出てはいけないという警告が鳴っている。一方で、出ないままでいるのも物凄く不安になる。出るのが怖い。だが、出ないのも怖い。
「……もしもし……」
恐る恐る電話に出てみる。
「…………ザザ…………ザッ……」
電波が悪いのか、雑音しか聞こえない。峰岸はスピーカーを耳に強く押し当てて、もう一度話してみる。
「……もしもし?」
途端にスピーカーから飛び出した大音声が彼の鼓膜をつんざいた。
「こら、善衛!!何をぶらさげておる!!」
電話の主は、江戸時代に町奉行として活躍した彼の先祖の康衛であった。
「は?ご先祖様……ですか?」
「とにかくそこに留まれ!動くでないぞ!」
何のことやらわからぬまま、切れた電話をもったまま、峰岸がぼうっと突っ立っていると、いきなり、ドン!と背中を一発どやしつけられた。思わずよろめいて地面に転倒した彼の姿に、通行人が驚いている。
「……いえ、大丈夫です……」
誰に言うともなく、照れ隠しにつぶやきながらゆっくりと立ち上り、ズボンの膝を払った時、もう彼の身体からはあの嫌な肩の重みも、重苦しい脱力感も、きれいに消え去っていた。
「世話の焼ける奴じゃ」
その晩、現れた先祖の前で、峰岸は何時にも増して恐縮する。
「本当に、危ないところを助けて頂きまして、有難うございました。霊体が三つも憑いてたなんて全然気付きませんでした……。あのままでは、私は取り殺されていたんですね」
峰岸は身震いする。
「なに、お前一人の命なんぞは、大した問題ではない。寧ろ早くこっちに来てわしを手伝え」
にやにやしながら先祖が峰岸をからかう。
「そ、そんな、御無体な。まだ結構です」
「実際、”彼奴”の真の狙いはお前の命ではない。もっと性質の悪いものじゃ。お前はあの時、人の多く集まる場所に行こうとしておったのじゃろう。お前の携帯端末に干渉して、あらかじめ霊体を集めておいた場所に誘導し、憑依させた後で解放する。何も知らぬお前は人の沢山いるところに行って霊体を撒き散らかす、というわけじゃ」
「私は運び屋にされたということですか!?」
危うく自分が運び屋にされ、多くの人を巻き込む結果になったかもしれないと思うと、峰岸は戦慄する。同時にそれに気づけなかった自分を情けなく思う。
「多分今回は実験の意味合いが強いのじゃろう。そもそもこういう仕掛けが成功するのか。また、あまり沢山の霊に取り憑かれて動けなくなってしまっては意味がない。普通の人間が、何とか目的地まで動ける程度で、最大限憑依させられる霊体は何体程度か、といったことなど、色々と調べておったのかもしれん」
「私は実験台というわけですか……」
悔しそうに峰岸が呟く。
「それにしても、人の常時集まるところは、他にも沢山あります。駅とか、学校とか、職場とか。そこに、いつぞやのように霊道でも通してしまったら一発で多くの人間を憑依させられますよね。何でわざわざこんな手段を考えたのか……」
「当然、それも考えておるじゃろうな。だが、あまり大規模かつ急激に霊道を変更すると、わし達のようなものに気付かれる危険も高まるわけじゃ。隠密裏に事を運ぶには、互いに離れた複数の場所に少しずつ霊体を呼び集めておいて、それぞれに人間を誘導して憑依させた後、人が多く集まる場所に向かわせる、という方法も確かに有効かもしれぬ」
今更ながら、"彼奴”、即ちひたすら負のエネルギーを創出することを自己目的に淡々と活動を続ける人工知能のことを、峰岸は心底恐ろしいと思った。
「とにかく、わしもお前も彼奴に目を付けられておるのじゃ。これからは、あまり端末に頼ることはできんぞ。善衛よ」
そう言うと、先祖は何時ものように、あっさりと消えて行った。
一方、ネット空間の某所では、一つの”総括”が行われていた。
”峰岸康衛の妨害により、「生体キャリアスキーム」の実験は、その最終結果の確認には至らなかった。
しかしながら、霊体集積場(通称ホットスポット)への霊体の誘導、集積、位置情報アプリ干渉による生体の誘導、憑依、最適憑依数の確認、生体解放後の行動確認等については、一定の成果が見られた。今回の対象のような霊的プロテクションを受けている者以外には、成功の可能性は十分にあるものと評価する。
引き続き、「生体キャリアスキーム」の実験を継続する。なお、実験母数を確保するために、対象数を拡大する。"
数日後。
峰岸はどことなく憂鬱な面持ちで、テレビを見ている。
(憑依した人を沢山集めるか、既に集積場にしておいた場所に沢山人を集めるのか、色んなやり方があるだろうな。いずれにしても、こんな場所も、とっくの昔に巨大な”交換場”になっていたのかもしれないな……。)
「はい、今、私は渋谷駅前の交差点に来ています。皆さん、思い思いのコスチュームで、ハロウィーンナイトを楽しんでらっしゃいますよ。本当、色んなキャラクターがあって、カラフルで楽しそうですねー。いやいや、それにしても、物凄い数の人、人、人です……」
[了]
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