幼子、憐れむべき事

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幼子、憐れむべき事

「“ひとりわらし”って知ってる?」 「知らない。なにそれ?」 「今、流行ってる噂なんだけどさ。”ひとりわらし”って妖怪がいるんだ。そいつは、子供が一人でお留守番してる家にやって来て、大きな口で、その子をパクっと飲み込んじゃうのさ。そうして、自分が飲み込んだ子供になりすまして、何食わぬ顔でその家の子になっちゃうんだって」 「ふーん……」  とある冬の日の深夜。  学生時代の友人達と都心で旧交を温め、なんとか間に合った終電から降りてきた峰岸は、駅から家に向って夜道を歩いていた。時計はもう翌日の時間を表示している。  冬の冷たい空気が、酔っぱらった顔面に、ひんやりと心地よい。この時間になると、人通りもまばらになっている。いい気分になった峰岸は、思わず鼻歌を歌いながら、のんびりと歩いていた。  駅前の通りを離れて、住宅街に入って来た辺りで、彼は気になるものを見つけた。  人通りも殆ど無くなった深夜の路地裏。そこを5歳くらいの子供がたった一人で歩いているのだ。この真冬の寒空に、着ているものは薄汚れた半そで、半ズボンだけ。そこから伸びている木の枝のように痩せこけた手足の表面には、無数の鳥肌が立っている。身長は峰岸の半分ぐらい。ふらふらとした足取りで、妙にゆっくりと歩いている。特にどこかに行く当てもなく歩いている、という印象を受けた。  こんな時間に子供が一人……しかも明らかに普通の状態ではない。心配になった峰岸は、近づいて声をかけてみた。 「ぼく、一人なの?」  峰岸の声に応えて、子供が顔を上げる。街頭の白い光に照らされたその顔を見た瞬間、思わず峰岸は凍り付いた。  頬のこけた、色の悪い顔。明らかに栄養が足りていないように見える。だが、何よりも峰岸を驚かせたのは、その表情だった。その目はギラギラと凄まじいまでの光を放ち、やせこけていながらも顔全体の筋肉が恐ろしいまでに強烈な表情を形づくっている。怒り、恨み、憎しみ、悲しみ様々な感情がその小さな顔面から物凄いパワーで発散されているように見えてくる。大人でもこんなに恐ろしい表情は見たことが無い。気圧されてしまった峰岸は、思わず言葉を失って凍り付いた。 「ごめんなさい」  その時、峰岸の背後で声がした。振り返ると、道の暗がりの中に一人の女性が立っている。  どぎつい化粧。金色に染めた髪、胸の開いたショッキングピンクのボディコン、紫色のピンヒールという格好。一方、派手目な恰好のわりに、どこか疲れてやつれた様子で、顔にはどこか悲し気な表情が浮かんでいる。 「ごめんなさい。ちょっと目を離したすきに、外に遊びに出てしまいまして。私がこの子の保護者です。さ、タっくん、おうち帰ろうね」  女の妙に丁寧な物腰に、峰岸はどことなく不思議な感覚を覚えた。  その時、不気味に沈黙していた子供が突然叫び声をあげた。 「やだー!やだー!」  その声も顔面と同様、極端に切迫した、禍々しささえ感じさせるような声だった。思わず耳を覆いたくなるような気分に陥りながらも、峰岸の頭の中で警報が鳴り始めた。ネグレクト……幼児虐待……この子は危険な状況にあるんじゃないか?咄嗟の判断で、峰岸は母親に詰め寄った。 「ちょっと待ってください。保護者と仰いましたけど、この子は本当にあなたのお子さんなんですか?」 「……」  悲し気に目を伏せる女はただ沈黙している。 「この寒空に、半そで半ズボンなんて、非常識もいいとこでしょう。しかもこんなに痩せて……体重は何キロですか?」 「……」 「ちゃんと、ご飯食べさせているんですか?なんで、こんなに痩せこけてるんです?そもそもこの子は何歳なんですか?」 「……」  立て続けに発した質問に、全て沈黙し続けている女に業を煮やした峰岸は、子供に直接話かけた。 「ぼうや、寒いだろう。お腹もすいてるんじゃないか?」 「寒い!お腹すいた!寒い!お腹すいた!」  また、あの耳を覆いたくなるような声で、峰岸の言葉を子供が鸚鵡のように繰り返す。栄養不良で知力も低下しているのかもしれない。もはや、迷っている場合ではないだろう。万が一勘違いだったら、俺が謝ればすむことだ。峰岸は腹を括った。 「すみませんが、私としては通報せざるを得ないと思います。実は私は以前警察に勤めていた者で、警察関係にも知り合いが多いんです。もし、ちゃんとした理由がおありなら、しかるべくご説明頂ければ済むことですし、何か困った事情がおありなら、担当の役所が力になってくれますから」 「……もう、遅いのです」 「えっ?」  沈黙を続けていた女が、急に発した言葉に峰岸は戸惑う。 「お気にかけて頂きまして有難うございました。タっくん、おうちに帰ろうね」  そう言うと、女は子供の手を引いて滑るように夜の暗がりの中に歩き始める。何故かその姿に見とれながら、暫し呆然としてしまった峰岸は、数秒後に我に返った。 「……あ、ちょっと!待ってください!」  慌てて女たちの消えた暗がりの中へと走ったが、もうどこにもその姿は見つけられなかった。  帰宅した峰岸は、妻の治子に今見て来たものを報告した。 「それ、絶対虐待よ。折角通報しますとまで言ったのに、なんですぐにしなかったの?」  治子が呆れた顔をする。 「うん、俺もそう思ったんだけどさ。何故か一瞬ためらってしまったら、その隙に行っちまった。上手く言えないけど……ド派手な格好してたけど、結構真面目に面倒見てるような雰囲気もあってさ」 「真面目?本当に真面目に子育てしてるんだったら、そもそも子供が外に出たりしないでしょ。いい加減なのよ。多分、男の所を泊まり歩いているんだわ」 「派手な格好してても、ちゃんと子育てしてる人も沢山いるだろう。見かけだけで判断しちゃだめだよ。話し方なんかも、結構丁寧な感じだったし」 「そういうのに限って、むしろ外面だけはいいのよ。特に男の人にはね」 それもかなりな偏見だとは思ったが、通報するとまで言っておいて取り逃がした峰岸としては、分が悪い。とりあえず黙って聞いている。 「とにかく今度見つけたら、すぐに通報してよ。万が一その子が死ぬようなことでもあったら、後悔するのはおとうさんなのよ。“あの時すぐにしていれば”ってことになるでしょ……」 「うん、今度はそうするよ……」  峰岸としてはそう言わざるを得なかった。  数日後の宵の口。  駅前の停留所でバス待ちをしていた峰岸の後ろで、塾帰りと思しい小学生くらいの児童が二人、バスを待ちながら雑談を交わしている。ふと、峰岸はその会話に興味を持った。 「“ひとりわらし”って知ってる?」 「知らない。なにそれ?」 「今、うちの学校で流行ってるんだけどさ。”ひとりわらし”って妖怪がいるんだって。そいつは、子供が一人でお留守番してる家にやって来て、大きな口で、その子をパクっと飲み込んじゃうのさ。そうして、自分が飲み込んだ子供に成りすまして、何食わぬ顔でその家の子になっちゃうんだって」 「ふーん……」 「ただし、その家の人がドアを開けてやらないと入ってこれないんだ。ドアをすり抜けて入ってきたりすることは出来ないみたい」 「じゃあ、とにかくドアを開けなきゃいいじゃん」 「誰でもそう思うよな。だからこそ、あの手この手でドアを開けさせようとするわけさ。”ひとりわらし”は何にでも化けられるんだって。子供の両親は勿論、親戚のおばさんとか、書留を届けに来た郵便局のおじさんとか、何にでも化けちゃう。例えば、お前んちのチャイムが鳴る。モニターを見るとお前のママが映ってる。“ただいまー、リョウ君、ドア開けて。両手がふさがってるのよ”とかママの声がする。そんで、お前が“ママ、おかえりなさーい”ってドアを開けた瞬間、パクっ!」 「ちょっと、やめてよー」 「あははは、お前、結構ビビリだなあ。大丈夫、お前んちみたいな貧乏人の家には来ないよ。だって、”ひとりわらし”はお金持ちの家しか狙わないから」 「何だよ、お前んちだって貧乏じゃんか。でも、なんでお金持ちばかり狙うの?」 「実はひとりわらしは、ネグレクトで殺された子供の怨みがお化けになったものなんだ。だから少しでも幸せそうな子供になり替わろうとするわけさ。相手をパクっと飲み込んじゃうのも、物凄くお腹がすいてた記憶が染み付いてて、何か口に入れたくてしょうがないからさ」 「ふーん、ネグレクトかあ……うちも貧乏人だけど、そこまでは行ってないから、まだましかなあ」 「まあ、それはうちもそうだな。こうやって塾に行けるだけでも有難いと思わなきゃね」  妙に大人びた子供達の会話を聞きながら、峰岸は数日前の深夜に見た子供の姿を思い出していた。ネグレクトで死んだ子供が妖怪に変化する、か……小学生の他愛ない噂話の中にも、やるせない現実が顔を出す。峰岸は思わず小さなため息を漏らした。  その晩。  久方ぶりに現れた先祖に、峰岸は先日の深夜に遭遇した、妙な子供と女の件について報告した。 「やはり、あれは育児放棄された子供にしか見えなかったんです。思い切ってすぐに通報した方が良かったのかと……ただ、女からは、一応真剣に探しているような雰囲気を感じさせていたのも妙に気になるのです。本当にネグレクトだったら、探しに行くなんてことしないでしょうし……どこか気になるものを感じまして」 「結論から言うと、お前の見た子供も女も、既にこの世のものではない」  峰岸の疑問に先祖が簡潔に答える。 「やはり、そうでしたか。急に消えてしまったから、ひょっとしたら、と思っておりましたが。あの男の子は、あの女の子供というわけですね」 「いや、そうではない。あの二人の関係は赤の他人じゃ」 「そうなんですか?“おうち帰ろう”とか言ってたから、てっきり親子かと思いました」 「あの女は、言ってみれば託児所の保育士のような者じゃ」 「保育士?」  先祖の意外な言葉に峰岸は戸惑う。 「あの女は、かつて自らも育児放棄で子供を死なせたのじゃ。少し前の話になるが、自分の一人息子を放り出して、男の所を泊まり歩く毎日だった。息子の待つ自宅には、殆ど1週間に一度くらいしか顔を出さず、一袋程度の軽食や菓子を放り込んで、また男の所に出かけるという毎日じゃった。4歳になる息子が骨と皮ばかりになって、とうとう餓死した時も、女はその三日前から男の所に泊まっておった。息子の胃の中からは、消化されなかった菓子の包装紙が出て来たそうじゃ」  何度も聞かされきた悲惨な虐待死の現実が、また一つ峰岸を暗澹たる思いに突き落とす。 「息子の死体を発見して流石にとり乱した女は、男に泣きついた。じゃが、保護責任者遺棄致死、場合によっては殺人罪が適用される女になぞ、当然誰も関わりたくない。下手をすれば、自分にも疑いの目が向けられる。結局我が子を死なせてまで依存していた男には、あっさりと捨てられた。それに絶望し、女は自ら命を絶ったのじゃ。男に別れを告げられ、携帯も着信拒否にされた後、女はその足で衝動的に駅に向かい、飛び込み自殺を遂げた。部屋に残された息子の死体も何もかも放ったらかしでな…… 「そのような死に方をした以上、当然のことながら成仏なぞ出来るわけもない。どこに行くことも適わず、この世を彷徨うことになった。ただ、今回については、本来なら未来永劫彷徨い続けなければならないところを、さるお方のご慈悲によって、この女には贖罪の機会が与えられることになったのじゃ。即ち、この世に彷徨う子供達百人の霊を預かり、その面倒を見続けること……」 「百人?そんなに沢山ですか?」  その数の多さに峰岸は驚く。 「善衛よ。ずっと昔から幼児虐待はこの国の至る所で繰り返されてきたのだぞ。こういう飢えや寒さによって死んでいった子供達も、当然この世に恨みを残し、彷徨い続けることになる。何十年も昔、あの女が生まれるよりもずっと以前から彷徨い続けている子供達もおるくらいじゃ。その数は百人どころではない、もっと膨大な数に及んでおるのだ。そして現在でもこうした虐待や育児放棄の事件は毎日のように発生し続けておる。世の中に報道されているのは、そのほんの一部に過ぎないのはお前も良く知っておろう」  先祖の口から、淡々とした口調で重苦しい事実が語られていく。 「腹が減った、寒い、かまってほしい、腹が痛いと二六時中泣き叫ぶそんな百人の子供達の霊を、寝る間も無く、一瞬の休憩も許されず、あやし、食べさせ、小便を洩らせば着物を替え、熱を出せば看病をし、あらゆる世話を続けなければならない。それこそまさに地獄じゃが、我が子を餓死させたことへの贖罪の機会が与えられただけでも、感謝すべきであろう」 夜道で出会った女の、疲れきって悲し気な、同時にどこか達観したような表情。派手な外見に似合わず、妙に丁寧さも感じさせるような、不思議な物腰。峰岸は漸くそれらが理解できた。あの女は特別な思し召しをもって与えられた贖罪の時を、過ごしているというわけか。二六時中、休むことも許されず……。 「あの女はいつまで贖罪を続けることになるのでしょう……」 「それはわしにもわからん。あのお方の思し召し次第じゃ」 「そうですか……。ところで、育児放棄と言えば、今日“ひとりわらし”という妖怪の噂話を聞きました。育児放棄で殺された子供の霊が妖怪になったもので、裕福な家の子供を飲み込んで、その子になり替わってしまうそうですが、本当にそんな妖怪はいるのでしょうか」 「そのような妖怪はおらぬ。勿論、育児放棄で殺された子供達の霊は沢山おるが、そんな妖怪は生まれていない」  先祖は、はっきりと否定した。 「そうですか。じゃあ、あれはただの都市伝説に過ぎなかったわけですね」 「そうじゃ、まさに都市伝説という奴じゃな。実在しないが、わしもその名前は知っておるからな」  先祖が妙なことを口にした。 「は?実在しないが、ご先祖様までその名前をご存知とは……」 「善衛よ、今も言ったように、いかにもこれは都市伝説なのじゃ。生者にとっても、死者にとってもな」 「生者にとっても死者にとっても都市伝説……?」  先祖の言葉はますます謎めいてくる。 「共通の内容を持った噂話が、人から人へ、霊から霊へと今も語り継がれておる。“ひとりわらし”という妖怪になれば、豊かで幸福な家の子供になり替わることが出来る……そんな噂話が子供の霊達の間に流布しておるのじゃ。過酷な虐待の記憶、飢えや寒さや痛みの拭い去れない苦しみそして恨み、今度こそは幸せな家の子供として生まれ変わってやるのだという強烈な執念……そんな想いに囚われた子供達の間で、この話はたちまちに広がっていったのじゃ」  人間の間で広まっている都市伝説と同じ話が、霊の間にも都市伝説として広まっていく……なんと奇妙な状況だろう。 「そして最近では、ただひたすら己の命運や大人たちや社会を恨み、憎み、呪い続けていれば”ひとりわらし”になれるという噂まで、流行り始めている。この妖怪は、育児放棄や虐待で殺された子供達の恨みつらみの念が凝り固まったものだから、ずっとそういう念を強く持ち続けることによってこれに変化できる、という理屈らしい。そんな思いを抱き続ける限り、当然、救済も成仏もますます遠のいていくばかりなのにな……」  人間の社会によって殺された子供達が、その社会が生み出した都市伝説のせいで、今度は救済の道を奪われる結果になる。まさにこの子供達は、社会によって二度も殺されることになるのだ……峰岸の心は重く沈んでいた。 「それで、”ひとりわらし”になるにはどうすればいいの?」 「”ひとりわらし”は、僕たちみたいにネグレクトや虐待で殺された子供の怨みが妖怪になったものなのさ。だから、思いっきり恨んで恨んで恨み続けていれば、いつかは”ひとりわらし”になれるらしいよ」 「恨んで恨んで恨み続ければいいの?」 「そう、恨んで恨んで恨み続けて、憎んで憎んで憎み続けて、呪って呪って呪い続けて……」 「なんだ、簡単じゃない。いひひひひひひひひひひひひひひ」 「楽しいね、タっくん。きゃはははははははははははははは」 [了]
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