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「キスしよ」
そう言われて突然、壁に体を押し付けられ唇を塞がれた。
驚いたまま、私は体を強張らせていた。
まず、先にどうするべきかなんてことまで考えが回らなかった。
あの時、何故「私は歩美じゃありません。間違えてます」とすぐに言えなかったのだろうか?
先輩が目の前にいる。それさえ予期していなかった。
先輩の薄い唇が押し付けられた。
キスが未経験だった私は、これがキスだと認識するまでに凄く時間がかかってしまった。戸惑う方が先で何がなんだかわからなかったのだ。
そこにオレンジジュースを入れたグラスを2つ手にして歩美が階段を上がってきた。
歩美の姿を見て、そこで初めて気がついたのだ。
ーーー先輩と私は、今キスしてる……
壁に私を押し付けキスしていた先輩より、押し付けられていた私の方が早く歩美の存在に気がついた。
先輩の胸を思い切り突き飛ばし
「違う、歩美!」
そう言ってグラスを持ったまま固まっている歩美に手を伸ばして近寄っていった。
「なにが違うのよ!」
ーーー弁解のしようが無い。
怒りと悲しみの入り交じった瞳で、私を睨んだ歩美はグラスのひとつを私の横の壁に目掛けて投げてきた。
壁に当たり砕け散ったグラスと、オレンジ色の液体。
「いつっ……」
飛び散る破片のひとかけらが壁にはねかえり私の顔をかすめていったのさえ、先輩に「血が…」と言われるまで気がつかなかった。
ほんの少しかすった程度だったのに、私は6針も左のこめかみ辺りを縫う怪我をした。
あの時に見た歩美のあの瞳。
あんな瞳は初めて見た。
傷の痛みよりも歩美が受けた心の傷の方が余程心配だった。
歩美の瞳が、間違えた先輩に対する怒りよりも、私に対する失望を強く現しているように感じ、私の体はしばらく震えがおさまらなかった。
そして、同時に感じた罪悪感。
ーーー拒もうと思えば拒めたのでは?
先輩が好きだったのは事実だし、わざとあえて言わないまま、好きな先輩だったから、キスを受け入れたのではないのだろうか。
そう考えると、汚らしい自分自身に吐き気がする。
ーーーそうじゃない。決してそんな気持ちじゃなかった。拒む時間がなかった…だから…。
歩美に先輩が間違えたことだと弁解しなかったのは、私の中に爪の先ほどだが黒い部分があったからだ。
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