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第一話 交差点の君
1
照り付ける陽の光に、僕は思わず目を細める。
駅前の交差点では都心へ向かう大人たちが、昨日の大雨とはうって変わってカンカン照りとなった空を恨めしそうに見上げながら額の汗を拭っていた。
加えて、おそらくはもう今年は終盤であろう蝉の合唱が、耳にへばりつくからたちが悪い。
まあ、蝉も暇で鳴いているわけではないので人間の都合なんか知ったことではないんだろうけど。
「やっ、トシ君」
けれど、そんな朝の喧騒の中でも。
「今日はよく晴れたねえ」
僕の耳には、その声だけが一際大きく聴こえてくる。
「お……おはようごさいます」
腰掛けた自販機の上からこちらを見下ろしてニヤリとした彼女に、僕は少し上ずった声で挨拶を返した。
「ふふ。そうそう、礼儀礼節は大事だよ」
「自販機の上から話しかけてくる人に言われても説得力無いと思うんですけど」
「えー」
「えー、じゃありません」
「ちぇっ」
口を尖らせて、彼女は座っていた自販機からふわりと僕の前に舞い降りた。
腰まである長い髪が特徴の彼女だけれど、何より目を引くのはその服装だ。
僕の通っている学校の女子の制服のようではあるのだけれど、彼女のそれはこの時期に似つかわしくない冬の装いなのである。
ブレザーの下に着こんだセーターも、首に巻いたマフラーも。
長めのスカートから見える厚手のタイツにしても。
まだまだ残暑の厳しいこの時期には、見ているだけで体感温度が更に上昇していくような気分になる。
「……その厚着、いい加減何とかならないんですか」
自販機の横にできた僅かな日陰に入りながら僕が言うと、彼女はニヤリと少し意地の悪い笑みを浮かべて、わざとらしくしなをつくる。
「やぁだ。トシ君、こんな往来で私に脱げって言うの?」
「人を変態ドS男みたいに言わないで下さい。最高気温がまだ三十度超える日もある時期にモコモコされてると余計に暑くなるから、せめてマフラーくらい取ったらどうなんですかって話です」
僕がジト目で返しても彼女はどこ吹く風で、舌をペロッと出してまた笑った。
「いやー、そうしたいのは私もなんだけど、服装変えられないのよね」
「……難儀ですね」
「んー、まあそこに関しては最近じゃ慣れてきたけどさあ。でもアレは未だに慣れなんだよねえ」
「アレ……?」
腕組みをして唸っていた彼女はやがて、自販機の陰から目の前の歩道に一歩進み出す。
丁度そこへ、交差点を渡ろうと急いでいるらしき会社員風の男性がまっすぐ突っ込んで来るのが見えた。
「あっ……」
僕が次に続く言葉を発するよりも早く、その男性は減速も進路変更もすることなく彼女に激突する。
――否。
彼女に激突すると思われた男性は、彼女を「通り抜ける」事で何事もなく、荒い呼吸のまま交差点を渡って行った。
「……うう。やっぱり苦手だわ、これ」
ややゲッソリした面持ちで、彼女はこちらへ戻って来る。
「別に痛いわけじゃあないんでしょう?」
「そりゃそうだけどさ……。物理的な感覚が無くても知らないオジサンが自分の身体を通過して行くとか、流石にアレでしょ? 乙女心的に」
「……乙女ですか」
「な・に・か?」
「いえ……」
「いやぁーその目は納得してないでしょ。あー傷付いた。幽子さんは傷付きましたー」
朝っぱらからテンションの上下が激しい人だな。
……いや。
厳密には人……と言うべきなのだろうか。
僕は自販機で買ったばかりのコーラを一口やりながら、わざとらしすぎる嘘泣きのポーズでこちらの反応を窺っている彼女に改めて視線を向けた。
彼女は幽霊である。
……と、断定的な言い方をしてしまったけれど、学術的に立証されたわけでもなければ誰かに説明されたわけでもない。
現時点でもう少し厳密な言い方をするならば「おそらく」幽霊である。
これは、状況証拠と本人の証言からくる推察だ。
僕と幽子さんが出会ったのは一月前。
家の都合で引っ越してきて、この町の高校に二学期から通い始めてすぐの事だった。
先程のように、炎天下の下で自販機の上に腰掛けている冬服の彼女と、この場所で目が合ったのが全ての始まりである。
自販機で飲み物を買おうとした所に人の足がぶらぶらしていれば驚くのは当然だし、それが季節感と正反対の冬服の女子学生ともなれば尚更と言うものだ。
「あの……ジュース、買いたいんで……足、どけて貰えますか?」
若干引き攣り笑いになりつつ、自販機の上の彼女にやんわりとお願いをした。
スカートは長めだったしタイツも着用しているようだったから、意識して視線を上げないようにすれば目のやり場に困ると言った状況になるわけではなかったのだけれど、商品のボタンを押すのに女子の足を押しのけるなんてしたらどうなるかわかったものではない……と言う自己防衛的判断によるものである。
「……」
「……」
「……」
しかし、少し様子を見てみても、反応が返ってこなかった。
「あの」
「……」
「あの、すみません。ジュース買いたいんで、足……どかして貰っていいでしょうか……?」
僕がそう言うと、彼女は不思議そうな顔をこちらへ向けた。
「……?」
「えっと……」
僕と彼女の視線が重なる事しばし。
「あの、ジュース買いたいんですけど……足の所にある商品、ボタン押せなくて――」
「人の足ジロジロ見るとか何考えてんのっ⁉」
先程までとうって変わって顔を真っ赤にした彼女が、思わず自販機の上から跳び退った。
そこへ丁度通行人が通りかかった。
「あっ!」
僕はぶつかると思って声を上げたのだけれど、その時もやはり通行人の身体が彼女の身体とぶつかることなく通り抜けたのだ。
更に言えばその事実に気付いているのが、おそらく自分と彼女だけだと言う状況に、僕はどうリアクションしたら良いのかわからず口をパクパクさせるほかなかったのである。
彼女は僕の顔を怪訝そうな顔でしばらく見つめて言った。
「……って言うか、君……私のこと、見えてる?」
彼女の「幽子さん」と言う呼称は仮のものである。
幽子さんにははっきりとした記憶がない。
いつからここに居るのか。
何故ここに居るのか。
そして、彼女は一体どこの誰なのか。
何から何までわからない事ずくめなのである。
現時点で分かっている事は、偶々僕が転入した学校の女子の制服と酷似している事から、本当に彼女が幽霊なのであれば生前はウチの学校に在籍していた可能性が高いという事くらいだ。
けれども本来の名前もわからないのでは調べる事もままならない。
せめてもう少し何か手掛かりがあるならとも思うのだけれど。
「今のところ君にしか私が見える人居ないんだから、もう少し気合入れて調査して貰わないと困るのよ、御山俊陽君」
幽子さんはそう言って膨れっ面でダメ出しを浴びせてくる。
「……僕は探偵やら興信所勤めになった憶えは無いんですけど」
「そんな薄情な子に育てた覚えはないのだけれど。哀しくて泣けてくるわ」
「幽子さんに育てられた覚えもありませんけどね……」
……と言うか、何でこの炎天下で出来の悪い漫才みたいなやりとりをしているのだろう。
「じゃ、僕そろそろ学校行かないといけないので」
「……あ、そう。そうね。俊陽君、学校あるもんね……」
何だかつまらなそうな顔をして、幽子さんは自販機の脇に積まれたケースを使って上によじ登る。
「……毎回思うんですけど、幽霊なのに飛べないんですか?」
「幽霊が飛べるなんて誰も決めてませーん」
こっちへ向かってべっと舌を出す幽子さんに軽く手を振って、僕は交差点を後にした。
2
昼休み。
中庭の木陰で購買のパンを齧りながら、幽子さんに関するいくつかの疑問に関してぼーっと考えていた。
幽子さんの「幽霊が飛ぶなんて誰も決めてない」と言う言葉は尤もで、彼女にはこれまで何となく常識みたいに考えていた幽霊像とは幾分異なる部分が存在する。
その幽霊像と言う概念は誰かが定義したわけではなく、幽霊本人に取材したものでもない。
各地の口伝や文献・伝承に残った情報が小説や漫画や映像メディアなんかに落とし込まれて――何というべきか、そういう半ばエンタメとして消化されているものを僕らが共通認識として取り込んでいるだけの話である。
そう言った捉え方の範疇に於いて、幽子さんの性質は僕にとって幽霊と言うものの概念を大きく上書きするに足るものだった。
まず一つは足があり、彼女はきちんと歩行する事ができる。
些末事と言うなかれ。
これは結構重要な事なのだ。
彼女はその足で地面を歩き、ビールケースを踏み台にして自販機によじ登り、あの交差点でずっと過ごしている。
駅が近い事もあって、時間帯にもよるがそこそこ人通りもあるあの場所の中で、本人的に一番落ち着ける場所なのだと言う。
――さて。そうなるとここまでの情報で、一見すると矛盾を来す事が浮かび上がってくる。
おわかりだろうか。
彼女は地面に対して「歩く」事ができ、自販機に対して「よじ上る」事ができる。
しかし、人に対しては「ぶつかる」事ができず、すり抜けてしまう。
物には触れる事ができるが、人には触れる事ができないのだ。
これが幽霊の――と言うと語弊があるな……幽子さんの持つ大きな特性なのである。
とは言え、この解釈もどうも完全な正解ではないようで、事実彼女をすり抜けた通行人も身一つだったわけではない。
当たり前だが服も来ていれば鞄も持っていたのだから、生物だけすり抜けるならば服や鞄には接触するはずだ。
そのあたりの仕組みと言うか、どういう理屈でそうなっているのかは未だ謎で、幽子さん自身もよくわかっていないようだった。
「……有機物はすり抜けて、無機物はすり抜けないのかな……? いやでも衣類にだって鞄にだって無機物は沢山使われてるしなあ」
「……御山、いきなり理系の勉強でもし始めたのか?」
「おおうわぁっ⁉」
背後からいきなり声がかかり、僕は思わず飛び退いた。
そこには長身の男性が一人。
ウチの副担をしている鳴海先生である。
スポーツマン然とした風貌にして性格も気さくで話しやすい……となれば、人望も厚いのは必然の評価である。
昔はこの学校のバスケ部でインターハイのいいところまで行った経歴もあるとかないとか。
担当科目は体育かと思いきや何故か日本史。
変なタイミングで転校してきた僕が学校に馴染めるようにと色々気を回してくれたようでもあるので、グイグイ来るタイプの人には少々気後れする僕も一応恩義は感じている。
ただまあ、そのせいでこの人が顧問をしている部活――いや、怪しげな同好会に引きずり込まれてしまったのは良かったのか悪かったのか。
「お前昨日部室に顔出さなかっただろ。俺が様子見に行ったら仙崎の奴にスゲー睨まれたぞ。ただでさえ人数減っちまって今年は部から格下げになったんだ。その少人数でさえ活動がおろそかになってたら、来年は擁護しきれんからな。今日は顔出してやれよ」
「……すみません」
「わかればよろしい」
「そう言えば、鳴海先生は何で――その、怪異研の顧問なんてやってるんです?」
「おいおい、そりゃあ怪異研に失礼だろ」
「いや、そう言う意味ではなくて、昔バスケでイイ所まで行ったって聞きましたし……バスケ部あるのに」
僕の質問に鳴海先生は少し困ったような顔をして笑った。
「かつて選手として適正があっても、後進の指導者に向いてるかは別って事もある」
「そういうものですか」
「それにな」
「?」
「運動部の顧問やると、休みが無い」
「うわあ」
「いやぁ、実際滅私奉公の精神が無いと運動部の顧問なんて務まらんぞ。金がある私立校なんかは監督を外部委託してる所だってざらにある。ウチは公立だから中々難しいが、そんな中自分の休みを犠牲にしてる先生方には頭が下がるよ。俺には真似できん」
この人は割とこういう所は線引きがはっきりしていて、なるべく自分の時間は確保したいらしい。
それでも日々の仕事量は膨大で辟易するらしいので、運動部の顧問などはとてもやりきれないと言うのが実情であるようだ。
「ま、そういうわけだから。今日はちゃんと行けよ、部室」
鳴海先生は僕の背中をバシバシと叩くと、ヒラヒラと手を振って校舎の中へ戻って行った。
何と言うべきか。熱血教師の類ではないが、面白い人物ではある。
「……今日は顔出すか」
残った烏龍茶を飲み干し、ギラつく真夏の空から逃げるようにして僕も校舎の中へ退散した。
3
「……御山俊陽。君は昨日学校を休んでいたか?」
部室へ顔を出した僕に、仙崎先輩は読んでいた本から視線を移す事無くそう言った。
「あ……いえ。来てました」
「部活から格下げを喰らったとは言え、同好会も学校側からすれば校内活動の一環だ。無断欠席は君をここへ連れてきた鳴海先生の面子も潰す事になるからおススメはしないぞ」
「……すみません」
仙崎霞さん。
一学年上の二年生で、怪異研の部長である。
……同好会だから部長と言う肩書が正しいのかはわからないけど。
ショートボブに切り揃えた髪に、縁の薄い眼鏡のやや小柄な女生徒である。
一学期まではこぶ室には一応彼女を含めて四人在籍していたらしいのだけれど、三年生が受験勉強で一気に抜けてしまったらしい。
そんなわけで抜けた三年生とほぼ入れ替わりで連れてこられた僕と、二年生の仙崎さんだけが怪異研のメンバーである。
それと、怪異研と言うのは略称であって正式名称ではない。
厳密には『郷土史並びに民間伝承に残る不可視の概念及び怪異的現象の発生及び変遷に関する調査・研究活動を趣旨とする部』である。
まあ現在は最後の部分が同好会になるわけだけれど。
僕は俗に言う『オカ研』だと思ったのだけれど、初日にそれを言ったら滾々とお説教を喰らう羽目になった。
そのあたりは彼女なりの拘りがあるようである。
とりあえず彼女の向かいの席に腰を下ろす。
彼女が読んでいるのは、あまり見かけない表紙の本だ。
「それ、また新しい妖怪辞典ですか?」
「今昔画図続百鬼、だ。雑な呼び方するんじゃない。」
……妖怪の解説が載ってるなら変わらないと思うのだけれど。
「けど、仙崎さん本当に妖怪好きですね」
「妖怪が好きなんじゃない。妖怪も含めた怪異譚と言うものが生まれる過程を調べて行く事が好きなんだ」
「未だにそのあたりがよくわからないんですけど……」
頬を掻きつつそう言った所で、しまったと思った。
あまり表情が動かない仙崎さんの口元が吊り上がっている。
「君はまだこの部……もとい、この会の趣旨を理解していない様だな」
「仙崎さん、目が笑ってないです」
怖い怖い。
変なスイッチを押してしまったぞこれは。
「私が興味を惹かれているのは『起源を持つ怪異譚』だ。歴史的バックボーンを持たないものには興味がない」
「えっと……例えば?」
「そうだね……雨おんばと言う妖怪の伝承を知っているかい?」
「雨女ですか?」
「雨おんば、だよ」
頭の中で反芻してみるが、覚えがない。
「それは……聞いたことないですね」
「大雨の日に現れて、子供を攫うとされる妖怪だ。君はこの妖怪の伝承が、何故生まれたのか想像できるかい?」
そう言うと、彼女は後ろの棚から地図帳と、郷土史をまとめた資料の分厚いファイルを机の上に広げてみせた。
「長野県の下伊那と言う地域周辺が、伝承の大元になった発祥地だ。地図帳を見てごらん。どんな地形だと思う?」
「……えっと……大きい川がありますね。あとは……山地が多いかな」
「そう。このあたりは急峻な山に囲まれていて、一級河川の天竜川が流れている。支流もいくつかあるね。そしてこっちの郷土史の資料を見るとわかるのだけれど、上流では天竜川、下流域では荒玉河なんて呼ばれていたりしてね。暴れ川であるこの川の治水は、江戸時代に入るまでは中々手が付けられなかったんだ。当然、大雨が降る度に数多くの大規模な水害が起きた」
「水害って、洪水ですか」
「そうだね。それも床下浸水だとかそう言うレベルじゃない。鉄砲水とか、土石流の類だよ。コンクリートの堤防も無い時代だから、現代よりも命に係わる被害が起きやすかったんだね」
「なるほど……。あ、じゃあその雨おんばって……」
「気付いたかな?」
仙崎さんさんは少し得意げな笑みを浮かべる。
「自然災害に対する畏れが形になったって言う事ですか?」
「正確にはそれプラス、危険な場所がよくわかっていない子供を、大雨の日には目の届く所から放してはいけない……と言う教訓と、実際に我が子を亡くした当時の親たちの悲嘆が合わさってできたものだろうね」
つまりこの人は、怪異現象そのものではなく、それが怪異の伝承として出来上がった要素を解き明かしたいと言うスタンスなのか。
「この部屋に、妖怪ものの漫画とか小説とかが殆ど無い理由がようやくわかりました」
「ん? ああ、まあ買ったり借りたりしてある程度は読んでるよ。知らないものをどうこう言えんだろう」
「あ、そうなんですね」
「ただまあ、美男美女に妖怪の名前だけつけて、以降それらしいバックボーンの掘り下げもしないものは『あやかしモノ』ではないだろうとは思うが……、それを恋愛ものやバトルものとして好む層を否定はしないがね」
うーん……持ってる漫画の話題とかでご機嫌をとろうとしたりしなくて正解だったな。
地雷を全力で踏み抜く所だった。
その時、僕の脳裏にある考えが過ぎる。
「仙崎さん」
「ん?」
「知り合いに幽霊が一人居るんですけど」
「……熱中症の予防にはスポーツドリンクがいいぞ、御山」
案の定の反応が返って来ただけだった。
交差点の自販機の上で、行きかう町の人達を日々眺めているだけの幽霊。
今の所僕以外の誰からも認識されていない、この町の小さな怪異。
彼女にはどんな起源があるのかもわからない。
身なりからの推測ではあるけれど、仙崎さんが日々研究しているような、長い歴史を持つ存在ではないはずだ。
けれども彼女は確かに、あの交差点に居る。
この炎天下の中、涼しい顔をして、冬服の幽子さんは交差点を見つめているのだ。
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