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第二話 登校の君
1
「はああああああああああぁぁぁぁ⁉」
薄暗くなった交差点に、幽子さんの声が響き渡った。
……いや、まあ彼女の声が聞こえるのは僕だけなので、この表現が適切かどうかはわからないのだけれど。
「学校の先輩に私の事を喋っちゃったの⁉」
自販機の上から飛び降りて、幽子さんが詰め寄って来る。
「近い、近いから」
彼女が人間とは物理的に接触しない性質である事はわかっていても、年頃の女の子の顔が目の前に来るのに慣れていない僕は、自分の顔が赤くなってくのを自覚してしまう、
尤も、幽子さんの方はそれどころではない様子だけれど、
「はーもうどうしよ……」
「どうしよって、何がですか」
「見世物にされちゃうかもしれないじゃない!」
……。
「だって私、ここに居ついてからずっと同じ服だし! お風呂だって入ってないんだよ⁉ お化粧だって全然直してないし……もーそういう事は先に相談してよぉぉお……」
……あー……そういう……。
「ここを毎日どれだけの人間が通ってると思います? それでも幽子さんそもそも僕以外に見えてないですし……」
「私、変な臭いとかしてないよね⁉」
「だ、だから顔近いですって。……匂いもしませんよ」
「ちょっと、今嗅いだでしょ!」
「嗅がせようとしてきたのはそっちで――」
思わず大声での言い合いになったところで、近くを通った人がこちらへ奇異の目を向けている事に気付いて語尾が尻すぼみになってしまった。
傍目には僕が一人で自販機に向かって何か言ってるようにしか見えないのだから致し方ないのだけれど。
「とにかく、心配してるような事は起きそうにありませんから大丈夫ですよ」
「……ほんとにー?」
ジト目でこちらを見てくる。。
「だいたい、その先輩もまるで信じてませんよ。この暑さで頭やられたのかと思われたみたいですし」
「何それ。感じ悪くない?」
「え」
意外な反応に、思わず聞き返してしまった。
「感じ悪い……ですか?」
「だって! 私はちゃんとここに居るのに!」
「いやまあ、そりゃあそうなんでしょうけど……」
「トシ君だってそれをちゃんと見てるのに!」
「知られたいのか、知られたくないのか……」
「そこらへんは乙女心を理解できないトシ君にはわからないんですー」
「乙女……?」
「何よ」
「……イエ、ナンデモ」
その後も何だか頬を膨らませてブツブツと日々の不平不満を愚痴る幽子さんの相手をしばらくして、僕は家に帰った。
――のだが。
「あの」
「何?」
「……何でついて来るんですか?」
翌朝。
いつものように少し雑談してから学校へ向かい始めた僕の後ろを、何故か見覚えある人がついて来るのに気付く。
「だって、私も行くもん」
「……行くもんって……そんな馬鹿な」
「なーにが馬鹿よ。失礼しちゃう」
「いや、だって幽子さん地縛霊じゃないんですか?」
「何それ」
「えっと……その場所に強い因縁がある霊の事で……」
「私、そのじばくれいってやつなの?」
「いや……どうなんですかね」
元々生前の素性どころか死因もよくわかっていない彼女である。
つい先入観でそう考えていたけれど、それも一般化した幽霊のイメージにカテゴライズしているだけの話で、幽子さんにあてはまるのか、それ以前に地縛霊などと言う概念が本当に存在するのかさえ確証がないのである。
「ほら、そんなのホントかどうかなんてわからないじゃない」
「……そうは言いますけどね……」
……まあ実際、あの交差点からだいぶ離れた場所まで来ているけれど、幽子さんの様子に変化は見られないので案外大丈夫なのかもしれないけれど。
「とにかく! まるで存在を信じられてないのは何だか癪に障るのよ」
まあ……大丈夫か。
事実僕以外には視認すらできないのが現状なのだ。
騒ぎが起きる要素は無い。
それで幽子さんの気が済むのなら構わないだろう。
「気が済んだらちゃんと戻ってくださいよね」
「はいはーい」
……全然人の言う事聞くきないな、この返事。
僕は深い息とともに、肩を落とした。
けれども正直、僕は心配してはいなかったのだ。
これはちょっとした幽子さんの我儘で、誰にも認識されないとわかれば大人しく帰るだろう。
それで夕方、少しだけ愚痴を聞いて一件落着なのだと。
そうタカをくくっていた。
2
「へぇー、こういう授業してるんだー」
「……」
四限目の日本史。
教科書を横から覗き込みながら、幽子さんが何やらさっきからウンウンと頷いている。
「ね、そのページ読み終わっちゃったから次のページ見せてよ」
「……」
「もー、ずっと黙っててつまらなーい」
……朝からずっとこの調子である。
僕はノートの端っこの方に、乱暴に「今喋れるわけないでしょ。授業中ですよ」と書きなぐる。
それを読んだ幽子さんは頬を膨らませたものの、とりあえ静かになった。
……が、それも五分くらいが関の山だ。
鳴海先生の板書を書き写していると、いきなり横から幽子さんが割り込んで来る。
「じゃじゃん!」
「うわっ」
突然ドアップで視界に割り込まれて声が出てしまった。
みんなの視線が一斉にこちらを向く。
当然僕以外には幽子さんの姿は見えないし声も聞こえないので、僕がいきなり声を上げただけの状況にしか見えないのである。
「……どした、御山」
「あ……いえ……」
「んっふっふ。俺の授業は居眠りするくらい心地いいかぁ?」
「……すみません」
僕が頭を下げると、教室内からクスクスと笑う声が聴こえてきて、思わず赤面してしまった。
先生が板書を再開するのを待って、僕は幽子さんをジト目で睨む。
けれども当の本人はどこ吹く風で、悪びれる様子も見られない。
「さて問題です」
おまけに何だかいきなり出題し始めたぞ。
「鎌倉入りした源頼朝が御家人統率を目的として設置した機関は何でしょうか?」
「……」
僕がノートの端に「今授業中です!」と書くと、幽子さんはニヤリと言いの悪い笑みを浮かべる。
「丁度今さっき先生が読んでた所じゃない」
……え。
「ふっふーん、ちゃんと授業聞いてなきゃダメじゃない」
……誰のせいだと思ってるんだ、この人は。
渋々教科書のページを巻き戻ってそれらしき部分を見つける。
僕は黙ったまま、またノートの端に「侍所」と書きなぐった。
「はーい。まあ教科書見直したからちょっとズルいけど正解でーす」
駄目だ。
完全に幽子さんのペースに乱されて授業どころではない。
とにかく授業が終わるまで大人しくしていてもらわないと……。
僕はそのまま筆談で説得を試みる事にする。
『授業終わるまで静かにしていてくださいよ』
「えー、つまらなーい」
……子供か。
『面白いとかつまらないとか、そういう問題じゃないでしょ』
「だって暇なんだもーん」
『自分で学校に着いて来たんでしょう! どんなにつまらない授業でも――』
「……つまらない授業でも……ね。御山ァ……参考までにその先は何を書くつもりか、先生すんげー気になるわ」
「……」
……筆談に夢中で思いっきり鳴海先生に手元を覗き込まれていた事に気付いていなかった。
「あ……あはは……」
「それじゃあ、つまらない俺の授業で恐縮なんだが、鎌倉幕府が御家人統率のために設置した――」
「侍所です」
「……ちゃんと聞いてやんの」
危なかった。
何の奇跡か、幽子さんに出された部分そのまんまで命拾いした。
「ちゃんと聞いていた御山には特別課題として次の授業の範囲の予習を明日提出してもらおうかな!」
……前言撤回である。
四限が終わって昼休み。中庭の日陰で購買のパンを齧りながら、幽子さんをジト目で睨む。
「誰かさんのせいで余計な課題を課せられたわけですよ」
「なによーう。ちょっとお喋りするくらいいいじゃない」
「日本の学校の授業は原則私語厳禁です」
「頭カタいと大人になってから苦労するぞーう」
「そんなこと言ったらゆ――」
幽子さんに言われたくありませんよ……と言う言葉を、僕は喉元で気付いて引っ込める。
これは、口に出すべきではない。
幽子さん自身もきっとわかっているだけに、余計に言うべきではない。
彼女が幽霊である以上、少なくとも身体的成長だけは間違いなくしないのだから。
「……お喋りなら、授業中じゃなくてもいいでしょう。現にこうやって今僕とは話してるわけですし」
「でもさ、気付いてもらえるかもしれないじゃない」
「……え?」
「ああして目立つ行動してたらさ、トシ君以外にも気付いてくれる人、いるかもしれないじゃない」
「……」
「駅前の自販機の上でずっと誰にも気づいてもらえないのは偶々で、別の場所ならトシ君以外の人でも私が見えて、変な事してるやつがいるなって、見つけてくれる人が居るかもしれない」
僕に、と言うわけではない。
自分自身に言い聞かせるように呟いた幽子さんの横顔を見て、僕はかけるべき言葉を上手く見つける事ができなかった。
彼女は、訴えているのだ。
自分はここに居るのだと。
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