第2章 悪意と、非日常と

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     *  ……最悪。私、今日、なんのために出勤したの。  新崎さんに指示されたのは、明らかに負担の少ない裏方の仕事のみ。しかも、どれも私がいてもいなくても変わらないだろう仕事ばかりだった。 『これも仕事だからね』  社員である彼女にそう言われれば、いくら不本意でも頷くしかない。  けれどこんなふうに新崎さんにも他の人にも気を遣わせてしまうくらいなら、いっそ最初から体調が悪いからと早退したほうが遥かにましだった。  休憩時間は、他のバイト仲間とは大幅にずれた。私が休憩室の扉を開いたとき、壁にかかった大きな時計は午後二時半を示していた。  休憩室のソファに、ひとりでぽつんと腰かける。食事を取る気にはなれず、靴を脱いで膝を抱え込むように三角座りの姿勢を取った。そうやって、休憩室の隅に並んだ三台の自動販売機の、弱って点滅を繰り返すライトをぼうっと見つめていた。  姿は見えなかった。  が、話の内容や声色から、先ほどロッカールームで話をしていた人物たちの見当はついた。 『昨日なんて私、ドリンクの出し方がどうとか注意されたんだけど』  注意、なんてふうに受け取られていたのか。  こうしたほうが効率がいいよと、良かれと思って助言しただけなのに。 『土日とかなにも予定ないのかな?』 『寂しくね?』  仕方ないじゃないか、働かなければ暮らしていけないんだから。  稼いだお金だって、遊ぶために使ったことなんか一度もない。 『気に入られて自分も社員気取りなんじゃないの』  私だって、最初は誰にも、名前さえ覚えてもらえなかった。  一年経ってようやく、慣れてきたねと声をかけられることが増えて、それだけだ。  けれど、それよりもなによりも、私の心を深く抉った言葉は。 『大して可愛くもない癖にデカい顔しちゃってさ』 『あのダサい眼鏡でよく人前に出ようと思えるわ』 「……うるさい……」  知っている。どうせ、可愛くなんて、ない。  自分の外見のためにかけられるお金など、最初からない。だいたい、大学には勉強しに行っているわけで、それ以外のことへの関心はそもそも薄いのだ。  眼鏡がダサくて悪かったな。  買い換えたいと思っていないわけじゃない。ただ、率先してそれにお金を使いたいとは思えないだけだ。  あんたたちに、私のなにが分かるっていうの。  ついに、堰を切ったように涙が溢れ出した。  心ない言葉から少しでも身を守りたいがために、ソファの上でぎゅっと抱えた膝。そこに零れ落ちる水滴は、私の意思とは無関係に次第に量を増やしていく。  慌てて眼鏡を外した。今日は急いで出てきたから、眼鏡ケースも眼鏡拭きも自宅に忘れてきてしまった。下手に汚れては困る。  徐々に嗚咽が深まっていく。こんな時間に休憩室に現れる人はいないだろうと高を括った私は、その場でひとり、ひたすら泣き続けた。  悔しい。でも、本人たちを前にして、今思ったことを言い返せるほどの度胸は私にはない。  だから逃げる。心の中で言い返して、それを涙に変換して、気が済むまで泣く。できるのはそれだけ。  うんざりだ。  私は、こんなにも弱い人間だったのか。 「……ふぅ……」  少しずつ、呼吸が落ち着いてくる。  いい加減泣きやまないと、目が腫れてしまう。そう思ってポケットからハンカチを取り出した、そのときだった。  不意に、ドアがガチャリと開いた。  反射的に身を強張らせた私は、弾かれたようにしてそちらを振り返って、そして。 「え……海老原さん?」  ……今日はどこまで運が悪いのか。  よりによって、このタイミングでこの人が現れるなんて。  参りきっていても、平静を保ちたいという気持ちは働くらしかった。  ソファのひじかけに置いておいた眼鏡に指を伸ばし、私は必死になんでもない態度を装いながら声を絞り出す。 「お疲れ、さまです。都築さん」  声は自分でも驚くほど掠れ、震えていた。  突如その場に現れた都築さんは、微かに目を見開いて私を見つめていた。
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