第2章 悪意と、非日常と

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《2》不穏な提案  しくじった。  誰も来ないなどと、どうしてそんな根拠のない考えを抱いてしまったのか。  こんな時間に休憩を取るバイトは、確かに私以外いないだろう。だが社員さんたちは違う。その程度のことにも思い至らなかった自分に、思わず悪態をつきたくなった。  握り締めていたハンカチを、慌ててポケットに戻した。涙に濡れた頬が見えてしまわないようにと、そのことだけに意識を集中させて顔を伏せる。  そんな私の態度に気づいた素振りもなく、都築さんはそのまま自動販売機に向かい、飲み物を買い始めた。ほっとした私は、背を向けられた隙に急いで頬と目尻をハンカチで擦った。  ガコンと缶が落ちた音が二回聞こえ、知らず眉根が寄る。  誰かに頼まれたのだろうか。そう思って顔を上げた瞬間、視界に入り込んできた缶コーヒーに、自分でも驚くほどに目を見開いてしまう。 「どうぞ」  弾かれたように声の主を見上げた。にこにこと人の好さそうな笑みを浮かべながら、都築さんが私に缶コーヒーを差し出していた。  おそらく私は、相当に間の抜けた顔で彼を見つめていたのだと思う。けれどその点を訝しむ素振りを見せるでもなく、都築さんは微笑みを湛えたまま、私の反応を待っているらしかった。 「……え?」 「ん? もしかしてコーヒー苦手とか?」 「あ、いえ」 「じゃあ、はい。まだ開けてないから、こっちが良かったらそれでもいいよ」 「いえ、その。こちらで……結構です、が」  断る、という選択肢が、言葉を交わすたびにどんどん消えていく。  意図的に相手の反応を操作している印象さえ受け、純粋に尊敬を覚えた。日頃から人と接する仕事をしている人だから、その手の能力に長けていても、なんら不思議はない気もする。  結局、差し出されていたほうの缶コーヒーを受け取り、小さくお礼を告げる。 「良かった。俺、こっち飲みたかったんだよね」 「は、はぁ」 「隣、いい?」 「……あ、ど、どうぞ」  ふたりしかいない休憩室で、なぜわざわざ私の隣に座る必要がある。そう考え至ったのは咄嗟に了承してしまった後だ。  どさりとソファに腰かけたその人は、特になにも言わない。静かに缶コーヒーを傾け続けるだけだ。居心地の悪すぎる沈黙に、先に折れたのは私だった。 「……あの。どうして私の名前、ご存知なんですか」  バンケットの社員が相手なら、覚えてもらっていないとさすがに困る。けれど、ウエディングプランナーの都築さんが、数いるバイトの中のひとりでしかない私の顔と名前を一致させていることに驚きを隠せなかった。  声が震えないよう最大限に努力している私の内心を知ってか知らずか、彼はあはは、と笑って答えた。 「だって海老原さん、いっつも出勤してくれてるでしょう? しかも真面目だし仕事熱心だし、プランナーの間でも有名なんだよ」 「……そうなんですか」 「俺らってあんまり現場に顔出せないから、バイトさん側から見たら誰だお前って思う子も多いだろうけど、海老原さんのことを知らないプランナーはいないよ?」  にっこり微笑んだ彼の顔は、一年前に見た笑顔とまったく変わっていない。とても直視していられず、私は曖昧に笑い返して顔を伏せた。  新鮮な驚きだった。そういうふうに考えたことは、今までになかった。自分がお客様からどう見られているかは気になっても、社員――それもバンケット以外の部署の人から、どんな目で見られているかなんて。  自分がきちんと認められている気がして、胸があたたかくなる。  直接のものではないかもしれないけれど、自分の頑張りを評価してくれている人が確かにいる。真っ黒に染まりきっていた心が、ゆっくりと晴れ間を取り戻していく。 「……ありがとうございます。その、嬉しいです」 「はは、どういたしまして。……で」  ――なんで泣いてたの?  射抜くような声に、ぎくりと全身が強張る。脈絡なく発された問いかけに、凪ぎかけていた心が再び荒々しく波立った。  彼の声に宿る温度は、先ほどからほとんど変化がない。だからこそ、質問の意味が正しい形で頭に届くまで、余計な時間がかかってしまう。 「言いたくない?」 「……いえ。その、仕事中に、ちょっと」  自分でも信じられないくらい、途切れ途切れの返事になった。  こんな喋り方をされては、きっと誰だって心配になる。よりによって相手はこの人で、それが今の私には心底つらかった。  露骨に濁された言葉尻に、伏せた視線。我ながら不自然にもほどがある。  さぞ訝しげな眼差しを向けられているのだろうと、見なくても想像がついた。この態度では、〝今の言葉は嘘です〟と自ら声を大にして叫んでいるようなものだ。 「……ほんとに?」  ……やっぱり。この程度の付け焼き刃のごまかしが、見破られないわけはない。  どうして今、私は都築さんと話しているんだろう。醜い内面が簡単に見抜かれてしまいそうなこんなタイミングで、ほぼ一年、ずっとほのかな憧れを抱き続けてきた人と。  これ以上、入り込んでこないで。いいえ、私の話を聞いて。  相反するふたつの思いが、嵐のように心の中を掻き乱す。結局、私は最も選びたくなかった選択肢を選んだ。続きを促すかのごとき沈黙に、半ば操られる形で口を開いた。 「……他の」 「うん」 「バイトの、子たちに」 「うん」 「……嫌われてる、みたいで」 「……うん」  ――可愛くない癖にって、言われただけです。  最後は茶化すような調子になった。そうでもしなければまた泣いてしまいそうで、怖かった。  はは、と笑う自分の声は、カサカサに乾いて聞こえた。それが幾筋もヒビが入った心をそのまま指し示しているみたいで、そこからあっさりと中身を見抜かれそうで、まずいな、とぼんやり思う。 「……直接言われたの?」 「い、いえ。たまたまその場を通りかかっただけですが……」 「……そう」  都築さんは、それきり口を閉ざしてしまった。  おそるおそる視線を向けた先、その横顔は怒っているように見えた。居た堪れなくなった私は、黙ったまま顔を俯けるしかできない。  きっと、この人には嘘なんて通じない。  咄嗟に張った虚勢もすでに見透かされている。どうしてかと訊かれても明確には答えられないけれど、なんとなくそんな気がした。 「あの、すみません、突然こんな話をしてしまって。ブスだとか地味だとか、別に普段から言われ慣れてるんですけど、今日はなんだか……ショックで」  自分がなにを口走っているのか、もう分からなかった。  初対面に等しいバイトにこのような話をされても、返答に困るに違いないと思う。頭ではそう理解できていて、それでもなんだっていいから返事をしてほしかった。  なにも答えてもらえないことが、沈黙が、怖かった。  なにを話そう。これ以上、どうやって話を続ければいいの。  途方に暮れかけたそのとき、抑揚の抑えられた低い声が鼓膜を揺らした。 「……ごめんな。蒸し返しちゃったな」 「っ、いえ、そんなことは……」 「その、なんつうか、俺らからしてみたらさ。遊び半分で働いてる子たちより、海老原さんみたいに真面目に仕事してくれてる子のほうがよっぽど大事なんだけどなぁ」  独り言めいた声に、一瞬耳を疑った。  はっとして声の主を見上げると、都築さんと目が合った。私よりも高い位置に顔がある彼は、ぽかんと口を開けて固まったきりの私を困ったように見つめている。 「とはいってもなー、いくらなんでも悔しいな。海老原さんはそいつらのこと、見返してやろうってふうには思わない?」 「……え?」  声のトーンはさっきまでと同じで、けれど口調が違う気がした。  どこか楽しそうだ。にやりと笑った顔を見て確信する。〝楽しいこと思いついちゃった〟と言わんばかりの表情に、どことなく不穏な気配を感じ取った私は、思わず眉根を寄せていた。  物騒な笑みは、瞬く間に爽やかなそれに変わる。  今度の微笑みは、この一年、私の心に鮮やかに焼きついていた笑顔とよく似たものだった。それなのに。 「可愛くなっちゃおうか。ねぇ海老原さん、明日って暇?」  爽やか。  そうとしか表現できない笑顔に、私がかつて抱いた感想は〝神様みたいな人〟……でも、今は。 「……は……?」  今はそこに地を這うような恐怖しか見出せないのは、私の考えすぎだろうか。
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