第2章 悪意と、非日常と

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《3》鏡と涙  待ち合わせ場所の、駅前ロータリー。  予定よりも少々早く到着し、どうしたらいいのか分からずウロウロとうろついていた私は、ほどなくして現れた都築さんに颯爽と回収されてしまった。  休日でも、彼特有の爽やかさは少しも損なわれていない。もっとも、有無を言わさず私を車の助手席に押し込み座らせたという言動自体はちっとも爽やかではなかったけれど。 『とびっきり可愛くしてもらえるところ、連れてってあげる』  そう語る彼は、やはりどこか楽しそうだった。前日に見た、爽やかなのかなんなのか判然としない笑顔が脳裏に浮かび、うっかり変な声が漏れそうになる。  乗り慣れない車のシートは、言ってはなんだが少々居心地が悪い。できれば心の準備をする時間がほしかった。そんな切実な私の願いは、駅に到着して数秒で儚く塵と化したのだった。  私服姿の都築さんは、職場で見るよりも遥かに若く見える。いや、幼くと言ったほうが正しいだろうか……本人にはさすがに言えないが。  仕事中はきっちりとまとめられている髪が、今日は無造作に下ろされている。風が吹くたび微かに揺れる柔らかそうな毛先は、私の知っている都築さんとはまるで別人のような印象を引き連れてくる。さらには仕事中とは違い、セルフレームの眼鏡をかけている。分厚く、おしゃれ感の欠片もない私の眼鏡とは似ても似つかない、センスを感じる眼鏡だ。  なんとなく、同じ学部の同期生を彷彿とさせた。  自分の外見に気を回す余裕がない私みたいな人間は、はっきり言って少数派なのだ。  着ている服も、高価そうな印象は特に受けなかった。薄手の黒のカーディガンとジーンズなんて、至って普通だと思う。  それなのに、この人が身に着けるとそれだけで洗練された感じになるのはなぜなのか。私が彼に対して抱いている感情を抜きにして考えても、結論は大して変わらないのではないかと思う。  ……一方、私はと言えば。  考えるだけで、深い溜息を零しそうになる。  突然の約束に、昨晩焦燥に駆られながら漁ったチェストの中には、Tシャツ、ジーンズ、Tシャツ……それしかなくて戦慄が走った。  あまりの惨状に涙目になって開いたクローゼットの中身に至っては、バイトで使うワイシャツが数枚下がっているだけだった。溜息などというものではない。臓腑の底から吐き出されるような深い呼吸を、昨晩からもう何度繰り返したか分からなかった。  格好に気を配ることがほぼない私が持っている服は、どれも味気なく、また色気の欠片も感じられないものばかりだ。別にそれは今に始まったことではないが、いざこうやって現実を突きつけられると落ち込んでしまう。  服なんて、着られればそれでいい。ずっとそう思って生きてきた。それを、今回ほど悔いたことはない。  以前、同じ学部の友人に無理やり押しつけられたお古のワンピースがあったことを思い出し、あれならまだいけるだろうと縋る思いでチェストの奥から引っ張り出したのだけれど、広げてみたら虫に食われて穴があいていた。本腰を入れて泣きたくなった。  結局、チェストの中のもので一番傷みが少なく、かつまだ女の子らしく見える服を選んだ。本音を言えば、それさえもひどくシンプルで素っ気ない。女の子らしさなど碌に感じられない代物だった。  消え去りたい。  すぐにも昨日の午後二時半に戻り、半ば一方的に提示された約束を丁重にお断りさせていただきたかった。  どうして、明日は学校です、と嘘をつけなかったのか。  それを伝えられていたなら、きっと彼は折れてくれただろうに。  ……いや、違う。本当はとっくに分かっていた。差し伸べられたあたたかな手を振り払うことなど、昨日の私にはどう頑張ってもできなかった。  ほとんど初対面の人物、それも男性を相手にこんな行動を取ったことなんて、二十年以上生きてきて一度もなかった。それでも、そうしなければ苦しくて息ができないくらいに傷口が痛んでいた、それだけのことだ。  彼は、自分が私の痛みを蒸し返してしまったと言った。けれど、私はそうは思っていない。  涙の理由について言及してきたのは、確かに都築さんだ。とはいえ、心のどこかでそれを誰かに聞いてほしいと願っていた自分がいたのも事実だった。痛みに震える心の傷口は、その時点ですでに、どう粘ってもごまかせるような大きさではなかった。  問題は、なぜ彼が私にそんな提案をしてきたか、だ。  都築さんにとって、私はただのアルバイトのひとりでしかない。私のことを悪く言っていたあの子たちと同じ括りに属している人間のはずで、それなのに、彼が貴重な休日を割いてまで私を連れ出す理由が分からない。  仮に私が可愛くなれたとして、それで? 都築さんになんのメリットがある? 私があの子たちを見返して、その先に、この人はなにを見出せるというのか。 『昨日、嫌なことを思い出させちゃったお詫びだよ』  車を発進させる直前に、彼はそう口にした。その本心がどこにあるのか、それがどんな形をしているのか、私にはさっぱり見えてこない。  私が一番不安に感じているのは、そこなのかもしれなかった。
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