第3章 可変と、不変と

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 郁さんと別れ、歩いて自宅に帰る。その途中、不意に思い出したのは、あの夕方の別れ際のことだった。  きっと、さっきまで郁さんと話していたからだ。彼のそれとどことなく似た郁さんの笑顔を思い出すと、それは一気に記憶の底から引き出されてくる。 『ごめん。その、可愛くて……つい』  あの声を思い出してしまったら、回想はそれだけで終わるはずもない。  男の人にあんなふうに抱き締められるなんて、初めてだった。塞がれた視界の隙間から微かに覗いた尖った喉仏や、私が痛くないようにとわずかに力が緩められた両腕や、緩く髪を撫でる指先や、ふと鼻を掠めた大人の男の人の匂い。そういうものが私をおかしくする。私を、普段の私とは違う私にしてしまおうとする。  知らない。あんな、心臓が壊れそうになる感覚は。  間違っても、学校やバイト先で思い出していい記憶ではなかった。そんなことをしてしまったら最後、恥ずかしさのあまり立っていられなくなるに違いない。  あれ以来、バイトに行くたびに異様に緊張する。新崎さんをはじめとした社員の人たちもバイト仲間も、私の外見の変化に楽しそうな声をあげて、けれど私自身はそれどころではなかった。もし彼と鉢合わせることにでもなったらどうすればいいのか、気が気ではなかった。とはいっても、ここひと月はそんな事態にはならなかったが。  あの日、彼はなにを思って私を抱き寄せたのだろう。  考えたくなかった。想像するだけで、恐ろしさに足が竦みそうになるからだ。  ――可愛くなかった私の外見が、変わったからなのか。  その推測に辿り着くたび、心臓がじくじくと痛み出す。  声が出せなくなって、呼吸が乱れて、涙が滲んで、底の知れない恐怖にどこまでも落ちていくような気分になる。  都築さんも、学校で声をかけてくる男の人たちと同じなのかな。可愛くないままの私が相手だったら、あんなことはしなかったのかな。  答えがほしいはずなのに、知りたくないとも思う。相反するふたつの思いに翻弄され、結局、最後にはなにも考えられなくなる。からっぽの頭に、与えられた温度だけが残って、それがいつになっても抜け落ちてくれなくて……さすがにこの件は、郁さんに相談するわけにもいかない。  昨日も今日も、おそらくは明日も、感情が入り乱れた私の頭は、同じ問いかけを延々と繰り返すばかりだ。
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