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事の始まりは、今朝。
珍しく遅刻しそうになり、駐輪場に自転車を半ば乗り捨てるようにして置き、ロッカールームに駆け込もうとしたまさにそのときだった。
扉の中から聞こえてきたのは、複数の女性の声だ。
会話に含まれていた私の名前に、ドアノブに伸びた指がひたりと動きを止めた。
「……ねぇ、なんなのあの人? アタシらと同じバイトなんじゃないの? 昨日なんて私、ドリンクの出し方がどうとか注意されたんだけど」
「ああ、いつもだよ。結構長いからだと思うけど、あの子社員にも結構気に入られててさ。ほとんど毎回出勤してるし、相当暇なんじゃないの」
「まじで? うっわ真面目ー、ちょっと引くレベル。土日とかなにも予定ないのかな? 寂しくね? それ」
「あはは。気に入られて自分も社員気取りなんじゃないの」
「そういうのムカつくよね。大して可愛くもない癖にデカい顔しちゃってさ」
「ねー、超地味だよね。っていうかあのダサい眼鏡でよく人前に出ようと思えるわ」
「あはは! アタシもそれ思ってた、ウケるー」
目の前がぐにゃりと歪む。回る視界に、堪らず口元を片手で覆った。
なんだこれ。この人たちは、なにを。瞼の裏が真っ黒に塗り潰され、心が深い暗闇の底に沈んでいく。
扉の方向へ近づいてきた気配と声に、麻痺した心よりも先に身体が反応した。
ガチャリと扉が開く寸前、私はすぐ近くの倉庫の扉を開け、その中に身を隠した。喋りながら事務所内へ向かっていく三つの人影が、前の廊下を通過していくのをじっと待つ。
心臓が嫌な音を立てて軋んだ。息苦しさを感じると同時に、視界がぐるぐると回り出し、さっきよりも強い吐き気を覚える。
そのまま、倉庫に積み上げられた段ボール箱の山にもたれかかった。
駄目だ、ちゃんと着替えないと。早く支度しないと。
霞む視界の中、やっとのことで腕時計に視線を向ければ、出勤時間の九時まであと五分もなかった。いつも十分前には出勤してきているから、私がいないことに気づいた社員ももしかしたらいるかもしれない。
――急がなきゃ。
自分を叱咤し、倉庫から抜け出す。
鉛のように重い両足では、隣のロッカールームまでさえ容易には辿り着けなかった。
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