{9}僕と彼女と火曜日の台風

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{9}僕と彼女と火曜日の台風

重たい雲が立ち込める火曜日。 かなり大型の台風が近づいていることもあって昨夜から雨が激しく降り始め、翌朝には災害レベルと言っていいほどの記録的大雨となった。 ニュースや朝のワイドショーがこの世の終わりが来たように「命を守る行動を」と緊急避難を呼びかけている。 彼女が現れる時間をとうに過ぎていた。これだけの大雨が降っているんだ、学校だって臨時休校になるくらいの大雨だ、と彼女が来ないことに物足りなさを感じながらも納得するしかなかった。 彼女のことばかりいつまでも考えている訳にもいかないので僕はまず新聞を読むことにした。大学生の頃から新聞を毎日読んできた。以前一緒に暮らしていた友人の影響で一時休止していたその習慣は、長年続けてきた実績により容易く再開することが出来た。友人と別れこの家に引っ越してきたことをきっかけに再開された習慣は、ブランクを感じさせず元通りの長年続けてきた習慣となった。 こんな大雨の日にも新聞は届く。雨に濡れないようにポリ袋に入っている。僕はかつては自分も従事していたその業務、新聞配達員に感謝をしながらポリ袋から新聞を取り出した。ポリ袋に入っていてもなお新聞の端っこは濡れていて全体的に湿っていたが読めないというほどではない。濡れて引っ付いた端角が捲り難かったが僕はその新聞を乾かすように大きくテーブルに広げた。オークの板目模様が新聞に隠れて見えなくなったテーブル。まず一面をしっかりと読み、二面三面をさっと目を通しすように読んでから小休止、僕は朝食をとることにした。 彼女はいつも家で朝食をとってきていた。僕は毎朝「朝食は?」と彼女に声をかけた。ほとんど場合それは彼女の素っ気ない「食べた」の一言で返されたが、これまで2回朝食を一緒に食べたことがあった。それは2回ともに僕がオムレツを作ったからだった。 僕がオムレツを作っていると何やら彼女は近寄ってきてフライパンを覗き込みながら「食べる」と言った。「食べた」と言ったはずなのに。キッチンのカウンターに両肘を付き両手で頬を包み込むように支えフライパンを覗き見る、彼女の唇がオムレツに恋したように震えていたのが可愛かった。 僕は特に料理が得意なわけではなかったがオムレツを作るのを得意としていた。特技といってもいいくらいのレベルだった。大学生の頃に掛け持ちしていたアルバイト先の一つに卵料理を専門とするレストランがあった。 しかし僕はそこで技術を身につけたわけではない。そもそもそのお店には一週間ほどしか勤めなかった。厨房に気の合わない嫌な先輩がいたとかそんな理由でアルバイトを辞めた記憶がある。でもそこのお店のオムレツが大好きでアルバイトをする前からちょくちょくお客として訪れていた。アルバイト先に選んだのもあわよくばあのオムレツを自分でも作れるようになりたいという目論見はあった。だから辞めたというのは、よっぽど嫌な先輩だったのだろうけど、どんな先輩だったかは全然思い出せない。その時に厨房で割った玉子の殻の数が思い出せないように。それはゴミ箱に放り込まれ、産業廃棄物処理の専門業者に回収されてしまっている。記憶を辿ることは不可能だった。 仕方なく僕は独学であのお店のオムレツを思い浮かべながらオムレツを作ることとなった。様々な料理本を見たり、インターネットの動画サイトで調理手順やフライパンを小気味よくひっくり返すテクニックを観たりした。大して料理をしない僕がこれまでの人生で一番作った回数の多い料理となった(これからもトップの座に君臨するだろう)。 こんな大雨の日も何となくオムレツを作ろうと思った。正直なところ彼女が「食べる」と言うのを思い浮かべての下心があった。(下心でも)願えば叶うということだろうか。準備に取り掛かろうとしていると彼女がやってきた。 「ものすごい雨よ、傘なんて役に立たないじゃない」 玄関のドアを開けた瞬間から彼女は怒っていた。いや、この剣幕だと開けるまえから怒っていたのかもしれない。 「この役立たず!」 彼女は傘と喧嘩別れして、傘を玄関の外に無下に放った。 「こらこら、風で飛んでくよ」 僕は彼女と傘の仲を取り持つように傘を玄関の中へ入れてやった。それでほんの少し玄関先に出ただけで横殴りの雨に僕の肩口は一気に濡れた。 彼女の方は何かの手違いで服を着たまま水泳大会に出場させられた直後のように頭から足先までびっしょりと濡れていた。この子は本当に傘をさしてきたのだろうか、と疑った。髪の毛の先からは水が滴り落ちワンピースは濡れて身体に張り付き靴の中には水が溜まっていた。 僕は風呂場からタオルを二枚引っ張り出し一枚を肩に巻きつけもう一枚を頭の上に乗っけてやった。彼女は靴を脱ぎびしょ濡れの靴下もその場で脱ぎ捨て廊下にあがった。廊下の上がり框に彼女の足の裏の形をした水溜りがいくつかできた。何か着替えを貸してやりたかったが自分の着替えでさえ足りていない状況だったし彼女もそのことを知っていた。タオルが二枚あったことが奇跡だった。 「バスタオルくらいあればね」 彼女は髪をタオルで拭きながら皮肉っぽく笑った。 僕は頭の中の買い物リストに「バスタオル」と書き込んだ。 「さて、どうやって服を乾かそうか」と考えを巡らせた。この家にはドライヤーもアイロンもない。乾燥機はもちろんない。しかし置き忘れられたように旧式の二層式洗濯機が洗面所にあった。僕は洗面所に行ってコンセントが刺さっていることを確認し脱水槽を回転させるツマミを少しだけ回してみた。やっぱり壊れてるのかと思わせるほど直ぐには動かなかったが、しばらくすると大きな音を立てて身震いするかのように脱水槽がゆらゆらと大袈裟に回転を始め次第に高速になっていった。大丈夫だ、壊れてないようだ。 「濡れたままよりはずいぶんといいと思うよ」と僕は彼女を洗面所に呼んで濡れた服をこの脱水槽に入れてツマミを5分らしき目盛りのところまで回すよう教えた。彼女の年齢からして二層式洗濯機なんて見たことがないだろうと思い丁寧に説明した。回転中に手を入れたら危ないことも付け加えた。 「玄関で脱いだ靴下も忘れずに入れるんだよ」と言って僕はダイニングに戻った。 彼女は言う通りに着てるものを全部脱ぎ脱水槽に入れてツマミを回す。旧式の二層式洗濯機はもう一度身震いし大きな音を立てて回転を始め程なくしてダイニングに居る僕にもその音は聞こえてきた。その音で彼女が自分の言った通りにできたのだと確認した。しかしその音は微かにしか聞こえなかった。外で激しく降る雨の音に混じっていて聞き分けるのは難易度が高かった。そんな音を聞き分けながら僕はオムレツのことを考えた。雨の降る音。脱水槽の回転する音。そしてフライパンの上で油が弾ける音。焼きあがるオムレツ。真っ黄色でふわふわとしていて、箸で半分に割ると中はとろりと半熟だ。僕はお腹が空いていることにあらためて気づく。朝食はもう少しあとになりそうだな、と少しばかりの覚悟が必要だった。そろそろ脱水が終わる頃かとうさぎのように峙てている僕の耳に、この家で初めて聞く別の音が飛び込んできた。別世界から聞こえてくる音ではない。現実世界の玄関のチャイムだ。 誰かがこの家に訪ねて来るなんて想像もしていなかったので、それが玄関のチャイムだと気づくまでに少しの時間を要した。 ほぼ同時に僕は彼女のことを思い出した。玄関へ向かう廊下のちょうど中間に洗面所の引き戸がある。格子状の枠に磨りガラスが嵌め込まれた木製の引き戸。彼女は真っ裸で洗面所にいるはずだ(パンツくらいは履いていてもおかしくないが)。だけど真っ裸であるがゆえに洗面所の引き戸はしっかりと閉められているだろう。或いは誰だかの訪問に気づいて脱水槽のツマミをひねり回転を止め(回転中は手を入れない事に注意しながら)、まだ濡れてはいるがしっかりと絞られた服のしわを伸ばし慌てて着込んでいるかもしれない。そんなことに思いを巡らせていると再び玄関のチャイムが鳴った。「いつまで待たせるんだ!」と怒っているような音にも聞こえた。居留守を使うことも考えなくもなかったが玄関の鍵は空いているはずだ(僕も彼女もいつも鍵を閉めない)。とにかく急いで玄関に向かった。ダイニングから廊下に出て真っ直ぐに玄関の方に目をやるとそこに彼女が真っ裸で立っていた。僕が注意したのに彼女は玄関に置いた靴下を忘れてたようだった。ばつが悪そうに右手に靴下を握っていた。玄関のチャイムの音がするスピーカーはダイニングにあって彼女には聞こえておらず訪問者の存在に気づいてないようだった。 瞬時にそのくらいのことは理解できたが、次の瞬間彼女が大声で叫んだ。 玄関に立つ真っ裸の彼女を見てからすべてが僕の目前に映像としてスローモーションのように再生された。映画『アンタッチャブル』、シカゴの駅で赤ん坊を乗せた乳母車が母親の手から離れ階段をスローモーションで転げていくシーンのようだった。脱税の証拠を握る帳簿係が24時の汽車でシカゴを出る。特別捜査官のエリオット・ネス(ケビン・コスナー)はその男を待ちかまえていたが、それが思いがけず激しい銃撃戦となってしまう。銃弾が飛び交う中、階段を転げ落ちる乳母車。僕は乳母車の赤ん坊を見るように彼女に視線を合わせた。24時の待ち合わせのように二人の視線が合うと彼女が瞬間的に「きゃあああ」とこれまで聞いたことのない十代の女の子らしい甲高い叫び声をあげた。彼女にもこんな高い声が出せるんだと僕は音楽教師のような所感をもった。それに赤ん坊を乗せた乳母車が手元から離れた時の母親の悲鳴ともリンクした。事の重大さに気づくはずもなく乳母車の赤ん坊は笑っていた。 オーケストラの指揮者が突然腹痛に襲われたように、彼女は両手で身体全体を隠すような素振りをしながらその場にしゃがみこんだ。 同時に背後の玄関ドアが開いた。土砂降りの雨を背景に勢いよく入ってきたのは制服姿の二人の警察官だった。捜査官役はケビン・コスナーやアンディ・ガルシアで間に合っている。シカゴの駅に日本の警察官は似合わなかった。しかし僕は思い出す。玄関のドアは現実と幻想をつなぐ境目だった。 僕は二人の警察官がどちらの世界から現れたのかを映画批評家の観点から考察していた。 いつもは雄弁な彼女がめずらしく動揺しているようだった。僕をかばうように何かしらの説明をしなくてはと試みているようにみえたが、あまりに気が動転していてうまく言葉が出ない様子だった。 警察官は迷わず判断し警察署で話を聞くことを二人それぞれに同意を求めた。真っ裸の彼女は警察官に黒いガウンのようなものを着せられてパトカーに乗って走り去った。僕も後からきた別のパトカーで警察署に向かった。その慌ただしくも騒がしい事の顛末は、激しく降る雨のおかげで幾許か刺刺しさが緩和された。階段を転げ落ちた乳母車がすんでのところでジョージ・ストーン(アンディ・ガルシア)に救われたように落ち着くところに落ち着いた。 何も悪いことをしていないのは確かだとおもった。事情を話せば誤解はとけるとおもっていた。しかしそれ以前に自分と彼女は可笑しな関係であったことも事実だった。すべてを包み隠さずに話したとして、かえって疑われるのではないだろうか。しかも相手は女の子で未成年だ。事件性も疑われることは間違いない。僕は移動中のパトカーの車内で隠すことと正直に話すことを、頭の中で順序立てて整理してみた。トランプカードのように右と左に並べて、一枚一枚に書かれた文言を確認し仕分けした。だが冷静になって考えようとすればするほど激しく降る雨の音が邪魔をした。雨の音にシカゴの駅での銃声が混ざり合い、その音にかき消されるように思考は消えて失くなっていく。シカゴの駅でマフィアやそこに居合わせた人々が銃で撃たれて次々と倒れていく。恐らくだけど、自分が思っている以上に大変なことになりそうな予感がして落ち着かなかった。 大きな雨粒が無数に張り付いたパトカーの窓の外の、雨粒越しに見えるメランコリックな景色が現実の世界には見えなかった。 信号が赤になりパトカーは交差点で停まる。信号は次は紫色になるのかもしれない。そしてその次は橙色かも。その次は何色?パトカーが走りだせるようになるまでしばらく待たなくてはならないようだ。いつまでも走り出さないパトカーの後部座席で、僕は無限にある色について考えていた。もう、何色でパトカーが走り出すのかもわからなくなっていた。 つづく
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