{10}気品あふれる若奥様

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{10}気品あふれる若奥様

初めてこの一軒家で夜を明かした時、僕は不思議な夢をみた。 それは夢ではなく“現実的”な話、幽霊を見たのではないかとおもった。なのに何故だか恐怖は感じなかった。あまりに鮮明に見え過ぎる幽霊のその鮮明さが不気味で、幽霊そのものの怖さは二の次に感じられる夢だった。 一人の女性が目の前に立っていた。 気品あふれる若奥様といった雰囲気の、それでいて何となくどっしりとしていて、どこか覚悟の決まった威圧感を兼ね備えている美しい女性が目の前にいた。 その気品あふれる若奥様は言う。 「一文無しのあなたがわたしのところにやってきた。そこでわたしはあなたにプレゼントを用意しました」 気品あふれる若奥様はそう言ってにっこり微笑んだ。いや、僕には微笑んだように見えた。不思議だった。若奥様の表情は微笑んではいなかった。そして続けた。 「そのプレゼントとはお金です。ある程度まとまった金額の方が良いのではないかと思い三十億円を用意致しました。あなたに三十億円を差し上げるとしましょう。あなたは夢のようだと喜ぶかもしれませんね。なんとなく光景が浮かびます」 若奥様の表情は変わらぬままだが、僕には微笑んでいるように見えていた。 「ただし条件があります。あなたにはわたしがこれから言うことを守っていただきます。あなたが夢のようだ、と思ったとしてもこれは夢ではありません。現実です。あくまでも現実的に守っていただかねばならない約束事があります。もし約束を守らなければ三十億円は返金していただき、違約金として10%の三億円を十日以内に支払っていただきます。どんなことがあってもお支払いください。どんなことがあっても回収させていただきます」 「わたしはあなたに三十億円を差し上げますがこのことは秘密です。誰にも知られてはなりません。そしてあなたは三十億円を受け取って速やかにここから出ていかねばなりません。10分後には来客の予定があり、わたしはこの部屋でその来客者と二人きりで誰にも聞かれてはならない大切なお話をしなくてはなりません。以上です」 「あなたの了承が得られれば直ちにここに現金で三十億円を運ばせます。その現金はすでにとなりの部屋に準備が出来ております。十人ほどのスタッフが待機しており1分とかからずこちらに運び終えるように事前に手配をしています」 「さて、どういたしますか?」 気品あふれる若奥様が僕に訊いた。 「あなたに考える時間は10分足らずしかありませんが、すでにお気づきのようにあなたが三十億円を受け取ることは極めて困難なことかもしれません。それでも挑戦してみますか?無理を承知で」 若奥様の表情に変化は見られない。しかし僕には茶目っ気のある笑みを浮かべているように見える。きっと何かを試そうとしている。何かの暗喩であり三十億円もメタファーなんだ。 「わたしは詐欺師ではありません。あなたに三十億円を持って帰っていただきたいと思っております。嘘ではありません」 僕は目の前の女性が嘘をついてるようには見えなかった。ましてや詐欺師だなんておもえない。とても信頼できる人格者として友好的に受け入れていた。ここでこうして初めて出会ったというのに、初対面だという気はしなかった。 気品あふれる若奥様は続けた。 「そこで提案です。あなたに六時間の猶予を差し上げます。本来はこんなことをするべきではないのですが、わたしはあなたのことを思ってそうすることにしました。 六時間後の午後八時までにこの部屋から現金三十億円を持ち帰ってください。条件は先程と同じです。約束が守られなければ違約金をお支払い願います。それと言うまでもありませんが、法に触れるようなことはおやめください。例えば運送会社に現金を運ばせるなどは違法行為です。そういったルールを守ることは大前提です。さて、如何なさいますか?」 僕は一旦この部屋を出て現金を運んでもらうために片っ端から知り合いに電話をしてみることを考えた。 それが現金であることを伏せてただの荷物として運んでもらうのだ。三十億円はどのくらいの荷姿でどのくらいの重量になるのだろう。一人で持ちかかえられるのは何億円分くらいなのだろう。僕の中で現金がその正当な価値を失いバーベルに取り付けられる鉄の円板の錘となんら変わらなくなっていた。そこにあるのは重量感だけだった。 若奥様はとなりの部屋に十人が待機していると言った。すなわち十人程度は必要なのだろうか?僕の携帯電話の連絡先メモリーは百件ほどあるがこんなことを頼める友人が十人もいないことは明らかだった。そこに確実性を求めるのならただの一人だって呼べないかもしれない。仮に時間が六時間あったとしてもそれは時間の問題ではない。やはり友人を集めることは不可能だろう。 それなら運送会社は違法だとしてもそれを運んでくれる第三者を連れてくることの方が可能な気がした。事前に自分があの部屋に段ボール箱を二十個ほど運び三十億円を分散して詰める。時間内に運び出すことができる人数を手配すればいい。この時点で現金は古新聞古雑誌と同じ扱いになっていた。 もちろんアルバイト代は奮発する。その金額を提示して、急な引っ越しで申し訳ないのですがと説明すればいい。そして運搬用の車両が必要だ。僕は現在一文無しだがレンタカーの料金は後払いではないだろうか?それかトラックを知人に借りられないだろうか?六時間あれはそのくらいのことは実行できるのではないか?ありとあらゆることを考えているといきなり睡魔に襲われた。 あまりに唐突な睡魔だった。 必死で考えを巡らせている僕の背後に何者かが忍び寄り、「その考えは無用だ」と柔らかなクッション性のある素材に包まれた鉄の棒で殴られたような暴力的な眠りだった。そこには現実的な痛みがあり、殴られたあとには苦しみがあったが眠りが幾らかは緩和してくれてもいた。 やはり不思議だった。すでに眠っていて、夢の中にいることを僕は自覚していた。なのに可笑しな話だが僕はまるで魔法にかけられて深い眠りに落ちるようにいつの間にやら目が覚めた。眠りに落ちて目が覚めたのだ。 夢の出口、縦に落ちる長いトンネルで足元に光が差し込む瞬間に、「三十億円?そんなもの僕が受け取るはずがない。何も手に入れないと誓ってるんだ。悪いけど他をあたってくれ」と僕は言った。 僕は両手のない逃亡者だ。そんな物が受け取れるはずがない。 現金は完全にその価値を失っていたし、古新聞古雑誌と同等になっていて厄介なお荷物に感じていた。 長いトンネルを抜けて、僕は足先から目が覚めた。先ず足の指が激しく動きその次には膝が動き、股関節が自由になりストレッチングが可能になった。それを受けてすぐに腹部から胸部にかけて、その内側にある臓器が具体的な重さを主張し再起動を宣言した。同時に右手と左手も自由に動かすことができたが、長く正座をした後の足のように痺れていた。最終的に頭部が目を覚まし、僕は頭が床に突き刺さって、両手の支えもなく逆立ちをしている状態で現実の世界に帰還した。 僕は引っ越してきた時からそこに置いてあったダイニングのソファーの上で寝ていた。 布団は持っていないし、この家にはソファーはあるがベッドはなかった。必然的にこのソファーで寝ることにしたのだった。 僕は引越してきてからしばらくの間、このソファーの上で眠りいつも夢を見た。 それはたわいのない夢だったり。深い深い夢だったり。 たまに現実との境界線が曖昧な夢もあった。 つづく
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