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{12}僕とワンピースの下は裸の女性
「久しぶりに飲みたい気分なんだ」
その夜三年ぶりくらいに僕は繁華街に出た。適当な店を探しビールを飲むことにした。ビールを飲むこと自体が同じく三年ぶりくらいになる。
駅前にほど近い通りを歩いていた。
嫌な汗をかいているようで僕はハンカチで顔を拭った。その汗はべっとりとしていたので何度も何度も念入りに顔を拭った。
僕は顔を拭った後のハンカチを見た。
ハンカチ?
自分がハンカチを持っているはずがない。僕にはハンカチを持って出かける習慣がない。
ハンカチだと思って顔を拭ったそれは靴下だった。よく見ると小さめの黒い靴下だった。
繁華街を歩いているとやたらと如何わしい店が目についた。別にどんな店でも構わないのだけど最低限としてまともなビールが飲める店にしたい。
僕はもともとビールが好きだった。だけど訳あってこの三年くらい口にしなかったんだ。久しぶりのビールなのだからまともな物を口にしたい。心から「美味い!」と唸りたい。そのためのビールを提供してくれるお店に入りたい。そこらの如何わしい店では疑う余地がある。僕は何軒かの居酒屋をやり過ごして、大手ビールメーカーのポスターがやたらと目立つ場所に貼られた信頼の置けそうなその店に入った。
平日の夜で、しかもまだ早い時間帯だったからか店内はお客がまばらだった。僕は店員の案内も待たず、つかつかと奥の方へ歩き誰にも邪魔ができない隅の席に勝手に座った。やがて店員がメニューを持って近づいてきたがそのメニューを受け取るより先にビールを注文した。店先にポスターが貼ってあった、大手ビールメーカーの商品だ。
しばらくしてビールを持ってきたときに初めて店員の顔を見た。丸顔で幼い印象だが見ようによっては色っぽくもあって、そんなアンバランスさが如何にも男好きするタイプの女だった。スタイルも良く胸はちょっかいを出してくれと言わんばかりに主張し張り出していた。
「お待たせしました」
店員はビールグラスをカウンターの上に置いた。
僕は視線だけをお辞儀の代わりのように下げ早々に店員から意識の距離を取った。店員はちょっかいを出してくるのを待っていたのに何もなかったので拍子抜けしたように厨房へそそくさと戻っていった。いや、世の中そんないかれた女ばかりじゃない。ただ単におつまみやらのオーダーを聞こうとしていただけだろう。生憎今のところ食欲がない。しばらくはビールだけを堪能したい気分だったのだ。
たぶんひどく疲れているんだ。
店員の案内も待たずに不躾に席に座りメニューも見ずにビールだけを注文し、他に何もオーダーしないなんて普段の自分からは考えられない行動だった。たとえ食欲がないにしたって、何か一二品くらい取り繕うように普段ならオーダーしたはずだ、と。店のカウンター席に腰をおろし少し気を休め、落ち着きを取り戻しながら自分の行動を反省していた。
正直なところ、約三年振りのビールは美味くもなければ不味くもなかった。冷えているというだけで、あとは泡があり、炭酸があり、苦味があるだけのただの飲み物だった。「これがビールというんだ」それは初めて飲んだ得体の知れない飲み物のようだった。ビールの方にもどことなくよそよそしさが感じられる。これまで飲んだことがあったのかさえあやふやになっていた。
それから二組の客が入店し、一組の客が退店した。後ろ姿しか見えなかったが若いカップルのようだった。
聴いたことのあるラテン音楽が流れている。サッカーの国際試合のテレビ中継などで聴く曲だ。心躍るメロディ。比較的若い層にも支持される店なのだろう。店内のインテリアからもそんなことを連想させられる。
店内に大きなモニターが設置されている。サッカー日本代表の試合がある時などはこの店は大盛り上がりになるのだろう。モニターから少し離れたところに、壁に掛けられたポップでチープな丸い時計が目についた。時刻は8時20分。赤を基調としたビビットな色合いのギンガムチェック柄の時計は針が認識しづらくやたらと時間が見難かった。
「8時20分?」
この店に入ってからもう一時間が経とうとしていた。時間の流れが少し早すぎる気がしたがそんなはずはない。
僕はちょっかいを出してくるのを待っている胸の大きな店員を呼んで美味くも不味くもないビールの二杯目を注文した。
「遅くなってごめんなさい」
店員が二杯目のビールを持ってきたのかと思ったら別の女性だった。
その女性は僕の横の席に座った。そのタイミングに合わせるように店員が二杯目のビールを僕の前に置いた。となりに座った女性は「同じものを」と店員に告げた。
その女性は淡いピンク色のワンピースを着ていた。ノースリーブで裾は膝上で短めだった。淡い色でおとなしめとしているのだろうがデザインからして派手だった。しかしその派手さに対等に渡り合える美貌が具わっているその女性は、服の派手さや肌の露出の割に変ないやらしさは感じられなかった。どういうことだろうか。逆に清楚で上品な雰囲気を醸し出している。清楚で上品なさまを逆説的に表現しているのだろうか。もしそうだとしたらそれは見事だった。でも一つだけ不審に思うところがあった。その女性はそのワンピースしか着ていないようだった。
「本当にごめんなさい。帰り際に急なアポなしの来客があって。そのクライアントの話がまあ〜長くて」
うんざりした表情をつくって流し目のように僕に視線を合わせた。僕は女性の視線に一瞬どきっとしてたじろいだ。「そう」とだけ相槌をうってすぐに視線を外し、やり場を失ったその視線を自分のビールグラスに移した。
僕は裸にワンピースだけを着た女性が(それもノースリーブで裾が短い)会社でクライアントと打ち合わせする様子を思い浮かべた。どんな会社だろう?どんな内容の打ち合わせなのだろう?いや、或いはこの女性は勤務中は会社の制服を着ているのかもしれない。白いブラウスに紺色のベスト、同じく紺色のタイトなミニスカートに足元はパンプス。彼女は仕事が終わると更衣室で一旦全裸になりワンピースだけを着て退社する。だとしたらそれは何の為に?
ちょっかいを出してくるのを待っている胸の大きな店員が来てビールをとなりの女性の前に置いた。グッドタイミングだったので僕は念のために確認してみたが、その店員はお店のロゴらしきものがプリントされたTシャツの下にブラジャーを付けているようだった。それらしき線がくっきりと透けて見えた。店員は僕の視線に気づきほんの一瞬だけ軽蔑するように目を合わせ、すぐさま「男性客はみんなそうなんですよ」とでも言うように僕に気を使ってにっこりと微笑んだ。いや、違うんだ、今のはただの確認作業なんだ。君の胸を見たかったわけじゃない。僕は心の中でそう言い訳しながら続けてとなりの女性を確認する。やはりワンピースの下には何も着ていないようだ。そこには下着らしい線も見られず生身の膨らみやら突起物の気配やらがあった。
となりの女性はビールグラスを左手に持ちからだを20度ほど僕の方に向けて「ではカンパーイ」と笑った。僕も条件反射的にグラスを持ち乾杯に応じた。二つのグラスが触れるか触れないかの刹那に女性は「おめでとう」と言った。グラスとグラスが触れあった音が、とても不可思議な疑問に満ちた音に聞こえた。
おめでとう?
僕はとなりの女性を誰だか知らない。その知らない誰だかと待ち合わせをしていたようだ。僕が何となく適当に選んだこの店で。そんなことがあり得るだろうか?僕はこの女性を知らないし、この女性が言っていることに心当たりがない。何一つもない。
ただ一つだけ引っかかっていることはある。それは8時20分という時刻だけだ。或いは20分遅刻して8時ということかもしれない。
夜の闇はすべてを隠せない。ささやかなる事がこぼれ落ちている。
僕はとなりに座るワンピースの下は裸の女性の顔をしっかりと目に焼き付けた。
まるで初めて恋におちた女性を見つめるような気分だった。
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