{1}象のレースと彼女のミルクティー

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{1}象のレースと彼女のミルクティー

「けっきょく象が負けたのよ!」  彼女は興奮気味に言った。 「何なの?象って何よ」  僕は彼女に訊いた。 「象っていったら、あの鼻の長い大きな動物じゃない!」  彼女はまだ興奮してる。 「大人をからかうんじゃないよ、誰が象の説明をしろって」  僕は意図的に笑みを浮かべ、予め決められた台詞のように言った。三文芝居だ。興奮している彼女を落ち着かせようとしていた。分かりやすい芝居というのはこういうときに役に立つもんなんだなとぼんやり思ったりしながら。 「じゃあ、あの象がほんとは誰を愛してたか知ってるの? そして何のためにあのレースに出場したのかも」  矢継ぎ早に質問を返してきたが、興奮しているせいもあって彼女は「出場」を「しゅちゅじょう」と言った。 「わかったよ、落ち着いて。いや、わかんないことばかりだけど、いったん落ち着こう」  興奮している彼女に気圧され、僕も少し冷静さを欠いていた。彼女を宥めるための言葉に、自分の心の声が一部混じってしまって、まるで僕まで興奮しているみたいになった。予め決められた台詞なら悪いのは台本を書いた作家なのだけれど、それは自分の口をついて出た、いわゆるアドリブの台詞。その台詞の不味さに反省し、作家に平謝りしながら「いったん落ち着こう」と、もう一度口にした。彼女にというよりは自分に言い聞かせるように、あえてスタッカート気味に。  彼女はどうみても落ち着きそうになかったので、僕は彼女にミルクティーを淹れてあげることにした。 「これで彼女は落ち着きを取り戻すことができる」と呪文のように唱える。乳飲み子が母の乳房でおとなしくなるように、彼女もきっとおとなしくなる。それは彼女にとって乳飲み子とおなじく、ほんの一時的なことなのだけど。  たっぷりと砂糖を入れるんだろ? わかってる。僕は彼女が好む砂糖の量を熟知している。シュガースプーンにいつものように山盛り砂糖を掬い、慎重にいつもの杯数をカップに注ぐ。  彼女は僕の居るキッチン近くのダイニングテーブルに寄ってきて、乱暴に椅子を引き腰かけた。楢のフロア材の床に、やたらと重厚感だけは立派な椅子の四本足のカルテットが擦れて激しくメロディーを奏でた。そのメロディーは全く才能を持ち合わせていない初心者が集まり、初めてにしては思い切りよく、せーの、と大胆に掻き鳴らしたバイオリンとその他の弦楽器による四重奏のように部屋中に響き渡った。そんな激しい音を立てても彼女には一片も悪びれるそぶりはない。テーブルに白い肘をつき澄ました顔をしている。端整な顔立ちで、少女特有の未完の美しさをキープしたいつもの表情だった。その表情を見てしまうと僕は怒る気にもなれない。ダイニングの床に多少の傷がついたからってなんだっていうんだ。そんな僕の気持ちを見透かしたように彼女は、座ったまま椅子の座面の縁を両手でつかみ、からだを前後左右に揺らしがたがたと音を立て椅子を前進させた。彼女は器用に、呼吸器や循環器がおさまる膨らむ気配もない未だ平坦なその部分と、テーブルのへりとの間合いを詰めた。  彼女のそんな乱暴ともいえる大胆な所作は、一見しただけの印象とは裏腹に見るべき人が見れば —権威ある審査員がジャッジすれば— 椅子のカルテットが奏でるメロディーに超絶なる技巧を組み合わせた素晴らしい演技だった。大胆でありながらそこに甘美さがあり、総じて芸術点が高く賞賛に値する演技だった。僕はキッチンのカウンター越しに、一連の彼女の演技を一審査員として称賛していた。いや、ただただ彼女の演技に魅了される一観客にすぎなかった。  僕はミルクティーをカップに注ぎ、それを両手に持ちダイニングルームへ移動した。コの字に曲がる短い距離の移動。僕のことを視線で追う可愛らしいハンターの、レーダー照射をかいくぐり彼女の背後に回り込む。ミルクティーをこぼさぬように注意しながら彼女の背中を左肘で突っついて、「天気もいいし、庭に行こう」と声をかけた。彼女の背中、肩ぐちあたり。華奢な体つきからは想像もできない柔らかさに戸惑いつつ。彼女を突っついた反動で両手にしたカップのミルクティーが波を打つ。幸いさほど大波にはならず緊急津波警報は発令されずにすんだ。その代わりに僕が「開けてー」と警報のように叫ぶと、彼女はめんどくさそうにまた椅子の足を擦らせて、カルテットの再演もそこそこに椅子から飛び降り、ダイニングルームから庭に出る大きなガラス戸に駆けた。大仰に腰を入れ二本の白い足を綺麗に揃えて、くの字に曲げる。最後の力を振り絞るアスリートのようにガラス戸を開けてくれた。  僕が庭に出ると彼女はまた腰を入れガラス戸を閉め、そこに置いてあるサンダルには目もくれず芝生の庭を裸足のまま駆けだした。原色のオレンジ色よりずっと淡い、氷のたっぷり入ったオレンジジュース色のワンピースの裾がひざぐちにあわせ可憐に跳ねた。生地を縫い合わせた糸が生命体となって裾を揺らし、彼女のひざぐちと円舞曲を踊っているようだった。その三拍子の優美な舞曲に跳ねるひざぐちを僕は眺めた。可憐という言葉を持ち出すにはぴったりな場面だった。からだの線に合わせ特注で誂えたようなワンピースもよく似合っていた。  ノースリーブから露にするつるんとした彼女の両腕は、太陽の一身上の都合により、この地球上から日焼けというものがなくなってしまったかのように、透きとおるほどに真っ白だ。普段の捻くれていて生意気さも目立つ言動とは似つかわしくない。素直でまっすぐな黒髪を肩にかかるくらいまで伸ばしている。身体は華奢すぎて健康的というには少し躊躇してしまうが、虚弱にはみえないある種の独特な生命力を備えている。小さくも美しい生命力。歳の割には身長は低すぎて、いつも小学生の低学年に間違われたとぶつぶつ文句を言っている。彼女は「冗談はやめてほしい」と唇をとんがらせて抗議をするように言う(そんな時彼女は顔を斜め上に向ける)。だが恐らくそれは冗談で言ったのではなく、相手の率直な感想だったのだ。名探偵でなくてもかんたんに推理できる。僕は庭の中央の白い丸テーブルにミルクティーのカップを置き、彼女が後から座る向かいの椅子に腰掛けた。  僕はミルクティーのカップに口をつける。彼女は熱いのが苦手だから、少しゆっくりと話しをしよう。 「ほら空をみてごらん」と僕は彼女に語りかける。 「雲が流れてる。雲はどこへ行くんだろうね」 「そんなの決まってるわ、一日のお仕事がすんだらお家に帰るのよ」と彼女は矢継ぎ早に返答する。こういう時の彼女は気持ちいいくらいに迷いがない。 「お家? どこに?」 「知らないわ、山の向こうじゃない?」と彼女はいい加減っぽく言った。迷いのない尻切れとんぼだ。  かもしれないね。一日のお仕事を終えた雲は山の向こうのお家に帰る。「おかえりなさーい!」と出迎える子ども雲。「晩ごはんにしましょう」とお母さん雲。温かいクリームシチューがテーブルにならぶ。「熱いからふーふーして食べるのよ」とお母さん雲。 「熱いっ、熱いじゃない!」と急に声をあげるうるさい彼女。まるでミルクティーとケンカしてるみたいだ。僕はその姿をのぞきこむように見る。 ほら、言ってごらん。「象がどうしたんだい?」  彼女はミルクティーのカップを置いて上目遣いで僕をみる。 「砂糖の量がイマイチね、だけど今日は許してあげる」と彼女はだいたいきまってそんな憎まれ口をたたくんだ。憎んでもらえないことがわかっている確信犯の浅はかな手口で。  雲はゆっくりと移動している。さっき居た場所から動いていないとおもえるくらいに。僕は空に目印しを付けていたから雲が動いたことを知ってる。こっそり動いたって無駄だよ、とその雲を見つめる。  そして彼女は語り始める。僕は雲を見つめるのとおなじように彼女を見つめる。ふんわり、と。 「その象はまだ、ほんとの愛を知らないのよ。だから無謀にも、あんなレースに出場したの」 「ふーん」 今度は出場、がちゃんと言えたね。「で、負けたんだね?」と僕は聞いた。 「ある意味ね」  彼女が言うには、それは勝負であることに間違いはないのだけれど、そもそも勝ち負けが重要ではなかったのだという。そしてある意味においては「負けて得るもののほうが多いのよ」って勝ち誇ったように言った。「勝ち続けるなんてできっこないんだから」とも言った。  はるか上空。どこかの山の向こう。雲の家族は幸せな毎日を過ごしている。  こだわることはときにバカバカしく、あまり重要な意味をもたない。勝ち負けは人の考えを限定するし、人を蔑ろにしかねない。  君が笑うだけで僕は満足だったけど。君を満足させることは僕にはまだできないみたいだ。せいぜいこのミルクティーくらいしか。 「もう溶けのこってはないさ」と僕が言っても彼女はいたずらにカップのスプーンをクルクルと回してる。もう、ちょうどいい温度だよ。 「わかってるわよ、もう飲めるわ」と彼女はカップの縁に唇をつけた。まるでミルクティーにキスするみたいに。  大好きなミルクティーを飲みながら君が笑うから僕は空を見上げたんだ。温かいクリームシチューを食べる、雲の家族の幸せな食卓を思い浮かべながら。今度もう一度、象の話を聞いて見よう。このとき僕はそう考えていた。正直あんまり意味がわからなかったから。ただ、今は…。  君が、大好きなミルクティーを飲む姿を見ていたいから。 明日はきっと、お父さん雲はお休みだね。 「さあ、どこへ向かおうか?」 明日からどこへ向かおうか。  僕と彼女の物語は、今から三か月前、梅雨に入る前からスタートした。  夏が「完全に終わった」と夏本人がそう口にした後に訪れた人見知りの秋。二人が次第に仲良くなり季節をバトンタッチする頃をゴールとした、そんな期間の話だ。まあ話せば長くなるが、人見知りの秋と仲良くなった後も物語はつづくのだけれど。  それは僕がとても暗い場所から抜け出した直後で、まだ人と関わることに不安を抱えていた時期だった。あの頃の僕は、山から人里に下りてきたばかりの限りなくヒトに近いヒトニザルのようだった。  彼女は天使のようだった。口の悪い捻くれ者で、その言動からは「悪魔?」とみまがうような一面もあるけど。そこも含めて「天使」と形容して差し支えないようにおもえた。少女特有の未完の美しさとおなじように、あまり完璧とは言えない未完の魔法を使う魔法使いのような一面もあった。  僕はヒトニザルでありながらショートスリーパーだった。ナルコレプシー : narcolepsy という睡眠障害の疑いもあった。それについては近いうちに病院に行ってみようとおもっている。少なからず現在は、ちゃんとした専門医に診てもらうことを選択できるくらいまともになったのだ。  まだ三か月前の時点では暗い場所から抜け出したばかりで、僕の心は圧倒的な喪失感に占拠されていた。一時的に過去から解放されてもなお頭はひどく混乱していた。悲しみと寂しさに蝕まれ穴だらけになった虫喰いセーター。その原形をとどめさせておくことはヒトニザルには難しすぎた。まともに考えようとすると、その“まとも”が意味を失い、糸を紡いだセーターがぱらぱらと解けるように道理を見失った。何はともあれ。僕には「一時的に」も、安息の時間が必要だったんだ。  そんな限りなくヒトに近いヒトニザルな僕と、悪魔ともみまがう天使のような彼女が、象のレースについてミルクティーを飲みながら、あれやこれやと思考をめぐらす物語。 『象のレースと彼女のミルクティー』そのはじまりは、初夏と手をつないで共に歩きだした。
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