{3}彼女の花柄ワンピース 三か月前①

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{3}彼女の花柄ワンピース 三か月前①

 僕が三か月前に引っ越してきたとき、すでにそこに彼女はいた。  彼女は家の門扉の前で待ちぼうけをくわされたように立っていた。在り来たりな表現だけど、そこに咲いた一輪の花のようだった。彼女のワンピースが黄色い花柄模様だったことがそうおもわせたのかもしれない。それも在り来りといえば在り来りなんだけど。  その黄色い一輪の花に「こんにちは成瀬道雄といいます」と僕は挨拶した。まるで花に語りかけるように。 「ここに引っ越してきたの?」と彼女は淋しそうに唇をあまり動かさずに問いかけてきた。  快晴の月曜日。梅雨が過ぎないことには夏がやってこない気がしていたが、梅雨はなかなかやってこなかった。夏を心待ちにしていたわけではないが、おかげで春がずるずると居座って、やがてやってきた初夏と意気投合してコンビを組んだような曖昧な季節だった。  澄みきった青い空。その青さを際立たせるようにいくつかの白い雲が浮かんでいた。彼女の黄色い花柄のワンピースは、そこに咲いているように自然で月曜日の午前の青い空の下に映えていた。だけどその瑞瑞しい佇まいとその日の天気とは不釣り合いに彼女の表情は曇って見えた。まるでこれまで自分が住んでいた家が奪われ、行き場を失くし悲しんでいるように僕には見えた。申し訳ないとさえおもった。でもそれは僕の主観による偏った見解で、彼女は僕の考えなど気にも留めていない澄ました顔だったのだ。僕の投げ入れた小石くらいでは彼女の湖面には波紋もおきやしない。普段と変わらぬ端整な顔立ちで少女特有の未完の美しさをキープしていたにすぎなかったのだ。  僕の挨拶に呼応するように彼女は早口でぶっきらぼうに名乗った。初対面の僕を前にして、人見知りしたり緊張しているようには見えない。それが彼女の普段の喋り方のようだった。  彼女の名はマイと言った。谷田だか谷川だか、「谷」が付く名字だったが、彼女がぶっきらぼうにあまりに早口で名乗ったせいで聞き逃してしまった。名字を聞き直すタイミングは一瞬にして過ぎ去ってしまった。別にかまわない。名前で呼べばいいことだ。  僕は始め彼女のことを「マイ」と呼んで、続けて「マイちゃん」と呼んだ。しかし彼女は「マイでいい」と言った。ちゃんづけは「子どもっぽいから嫌だ」と理由を説明した。自分の要求や要望をはっきりと口にすることのできる子らしかった。僕は彼女のことを十分に子どもだとおもって接していたのだが、そのこと自体が気に入らないのだろう。そういう年頃なのかもしれない。或いは彼女は見た目にそぐわず早熟なのだろうか。それか普段から「マイ」と呼ばれ慣れているだけのことかもしれなかった。  僕はそもそも名字ではなく名前を呼ぶことで彼女との距離を詰めようとおもっていた。自営業で人を雇っていた頃にも同じ理由で、アルバイトスタッフらにもそう接していたからそれが自然だった。名字を聞き逃したというしくじりのせいもあったが、友好的に接したいという気持ちの方がつよかった。凡そ歳の離れた子どもに対する接し方だったから、彼女はお気に召さなかったのかもしれないけど。 「お家はこの近く?」と僕が聞くとマイはこくりと頷き右手を水平にあげた。家の方角を示しているらしかった。彼女があげた白く細い腕。二の腕が、少女の見てはいけない部分におもえ僕はふと視線を逸らした。その気恥ずかしさを悟られないように、彼女が指した方角を覗く仕草をしてひょいと首を伸ばした。  その視界にはこの空き家の前の道が見えただけだった。この空き家の門扉の前、道路の先、二軒先に交差点。隣の家の石垣を思わせる加工が施された人工的な石塀から、椎の木らしき枝がはみ出して長円形の濃い緑の葉がエバーグリーンな生命力を誇示していた。まだそれほど焼かれてはいないアスファルトの路面に存在感のある影を落としてもいた。  前の道路には人の気配はなかった。まだ一般には解放されていない完成前の道路のようだった。一瞬、完成時に市長らがテープカットをするニュース映像が思い浮かんだ。赤い色の幅の広いテープを、ネクタイを締めスーツを着込んだ男性らとカンカン帽を被った赤いジャケットに白いミニスカートの女性らが一斉に鋏を入れた。拍手と歓声。赤、黄、青、紫と虹色を思わせる色とりどりの風船が空に舞い上がる。これは少々大仰すぎるか。ここはそんなに大きな道路でもなければ幹線道路でもない。ただの住宅街の、主にここに住む人が使用するための道路の一つに過ぎない。付近の幹線道路での渋滞を避けるための抜け道にもなっていないし、ましてや関係のない車が進入してこないように、迷ってしまうほどの構造になっていて交通量は極めて少なく限られている。住む人の安心安全に配慮した構造なのだ。小さなお子さんをもつ親御さんからしたら喜ばしいことだろう。  そういえばここに着いた時からこの道路に車が通っているのを見ていない。エンジン音すら聞いていない。ほんとに完成前の道路のようだった。完成したことをまだ誰も知らないのかもしれない。耳を澄ませばかなり遠くの方で車が行き交う音が聞こえなくもないが、それはこの町とは関係のないどこか別の世界から聞こえてきているようだった。うさぎのように耳を立てて別の世界の音を聞く必要もないだろう、と意識を今いる世界、自分がこれから居を構えるこの町に戻す。  ここの道路には車はもちろんバイクだって自転車だって通らない。人も犬も通らない。だけど猫はいた。通りを歩いていたわけではないがこの空き家に着く手前のお宅の低いブロック塀の上で目を細めて、たぶん寝ていた。だれにも邪魔されないという満足感と、安寧さを象徴する寝顔だった。その猫が雌猫なら安寧から取ってアンネと名付けよう。雄猫の場合は満足感からとってマンゾだ。僕はそのアンネ或いはマンゾの寝顔を見たことも相まって、ここは平穏な町だという印象をすでに持っていた。 「ご近所さんなんだ、よろしく」僕はかるく頭を下げた。 「何か手伝うことはあるのかしら」マイは予め引っ越しの手伝いをするために呼び出されたように訊いてきた。「みたところ荷物らしきものはなさそうだけど」  マイは空港の持ち物検査をする係員のように注意深く僕の全身に視線を這わせた。少女のいじわるな瞳から放たれるX線を浴びる。そんな検査を受けなくても素通りで機体に乗り込めるほどに僕はほとんど手ぶらだった。  僕は何も持たない主義だった。それは四十を越えて変革した自己主義だった。肩に下げたデニム生地のトートバック(かなり使い込まれている)の中には洗面道具とTシャツや下着の着替えなど最低限のものしか入っていない。旅行者としても物足りない荷物の量だった。引っ越してきた人の荷物だとしたら話にならないくらいに圧倒的に不足していた。 「見ての通り荷物は何もないよ」  僕は両手を広げて、“見ての通り荷物は何もない”とわざとらしくジェスチャーをした。彼女に対して、四十にして変革した自己主義を誇示してみせた。 「わけがわからないわ」  マイは荷物も持たず引っ越してくる人を初めて目にしたようで戸惑いと憤りを口にした。或いは僕の主義に異議をとなえる意味での発言だったのかもしれない。「とにかく中で話しましょう」と最初からそのつもりだったように玄関のドアを指差した。 「立ち話もなんだしね」  僕は気がつかなくてゴメンね、といった素振りをしてごそごそとポケットから玄関ドアの鍵を出した。  実際には錆びているわけではないが、錆び色でざらざらとした手触りのドアノブを左手で握り、対称的に真新しいシルバーの鍵を右手で鍵穴に差しくるりと回した。鍵には小さな鈴のキーホルダーが付いていて小さな鈴の音と一緒にカチャッと解錠された音がした。でもその音はまるで隣の家の玄関から聞こえてきたような小さな音で心細く響いた。  相変わらず前の道路に人は通らなかった。車も通らずかなり遠くの、別の世界から車の行き交う音が聞こえるほどに静かだった。アンネ(マンゾ)はまだ寝てるだろうか。あのお宅の飼い猫なんだろうか。これからご近所づきあいをする猫になることもあるだろうかと考えていた。それにしてもなんでこの子はこの家に入ろうとしてるんだ? 少しだけ疑問に思った。それも当たり前であるかのようにこの家に入ろうとしてる。  そのことを考える時間をつくろうと、警察官が誘拐犯からの電話を逆探知するため、話を引き延ばすように被害者(父母)に指示する刑事ドラマの定番シーンを思い出しながら、鍵穴から鍵をゆっくりと抜き取ることにした。時間をかけてゆっくりとゆ〜っくりと。そして考えた。だが僅かばかりの時間しか稼げず何の考えにも及ばなかった。相手は子どもだ。別に自分に危害を及ぼすわけでもないだろうし、自分に何らかの危機が迫っているとも考えにくい。ここは平穏な町なんだ。僕はそれ以上深く考えることを放棄して玄関のドアを開けた。始めからそうするつもりであったかのようにあっさりと彼女を迎え入れた。
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