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{4}僕の会社と僕を殺したやつら
三か月前に僕と彼女は出会った。
その話の続きを語るまえに、少しばかり過去の話をしなくてはならない。
それをしておかなければ、新しく語ることも意味合いが違ってきそうだ。
美味しい料理を作るためには下ごしらえが必要なように、その作業はとても意味があるものに思える。
それはあまり明るいトーンで語られるものではない。
どちらかといえば真逆のものだが辛抱強く聞いて欲しい。
それらの話が終わったら、再び彼女はあらわれる。
それに、状況はよく似ている。
まだあの頃の僕には彼女を待つことしかできなかったのだけど、今の僕も変わらずに彼女を待ってる。
彼女を待つしかできないみたいに。
空き家の所有者である赤松さんが僕にこの一軒家に住むことを提案してくれた。
赤松さんは僕の父親と会社を共同経営していて、父とほぼ同年代の六十手前。気さくで話し上手の聞き上手で、人に好かれるタイプの人だ。僕もご多分にもれず赤松さんのことは好きで、ここ何年かは父と会話するより赤松さんとの方が多いくらいだ。大変お世話になっている人だ。
赤松さんは会社の近くにマンションを購入しすでに生活拠点を移している。この町からそう遠くもない。JR東海道本線をサイコロ一振り(1や2が出た場合はもう一振り)で行けるほどの何駅か先の町だ。赤松さんもいずれはこの一軒家を売却するつもりでいたらしいが、建物を全面的に改築して売りに出した方がいいのか、いっそのこと建物は解体撤去して土地のみの方が売りやすいのではないか、など選択肢がいくつかあって決めかねていた。複数の不動産屋に相談しアドバイスを受けていたのだが、どこの話もメリットがありデメリットがあった。
「そのうち、自分でもどうしたらいいのかわからなくなったんだよ」と話しながら赤松さんは笑っていた。頭の痛い悩みのタネだったのだ。
そんな理由から僕にこの一軒家を貸すことを赤松さんは迷わず決めた。それ以上あれこれ悩みたくなかったのだろう。もちろん僕に対しての思いやりがあってのことだとはおもう。それに関しては感謝しかないが、本人にそのことを伝えると「長年住んできた家だから手離す決心がつかないんだよ」と照れ隠しのように本音を吐露していた。
僕は以前自らが経営していた会社の近くに、「どうせ寝るだけだから」とワンルームマンションを借りていた。
その言葉通りに当時の僕には仕事しかなかった。仕事を逃げ場としてそれに打ち込むしかなかったのだ。
一日のほとんどを仕事に費やしそのワンルームマンションで僅かな睡眠をとる毎日だった。そこはただの仮眠ルームだった。
「仮眠ルーム」と言い切ってしまえば立派なものだ。八畳の板張りの部屋に仕切りが無いお粗末なキッチンスペースがくっ付いていた。キャラメルのおまけのような台所だった。
それは僕の印象だが、一般的にはシンプルでスタイリッシュなワンルームマンションと呼ばれるものらしかった。
「お洒落なとこに住んでますね」とよく言われたもんだ。当時の僕にとってはそんなことはどうでもよくて、屋根があって、(隣人の部屋と)壁で区切られていて床があって寝っ転がれりゃあ良かったのだ。
そのお粗末な台所が付いたお粗末な部屋で毎晩お粗末な睡眠をとった。それは短い睡眠だった。僕はショートスリーパーだったから睡眠時間が短くとも、特別に心配することもなく体調面も気にすることもなかった。
僕はその頃、読書推進活動に伴う事業に取り組んでいた。
「読書をしよう」と訴える仕事だ。
対象は年齢問わず全般にではあるが事業を始めるにあたってターゲットを子供に絞ってみた。
未就学児、小学生、中学生といった層にいかにして本を読んでもらうかを考え、読書の楽しさとか素晴らしさを伝えていくことに集中的に取り組んだ。
事業のスタートアップとしてはそのやり方は理にかなっているようにおもえた。
あまり得意とは言えなかった経営面、マネタイズに向けた道筋がそこで見えたような気がして事実スタートダッシュに拍車がかかった。
世の中には色々な仕事があるものだと我ながらおもう。
よく人からどんな仕事をしているのか、と訊かれ僕が「読書推進活動をやっています」と答えるといつも相手の頭の上にいくつかの疑問符が浮かんでいるのが見えた。漫画みたいに「?(クエスチョンマーク)」が可視化されしゃぼん玉のようにぷかぷかと浮かんでいた。
僕はそのしゃぼん玉のように浮かんでるクエスチョンマークをいつも苦苦しく睨みつけたもんだ。
質問者は僕に「図書館に勤めているのか?」「学校の先生か?」「書店の店員か?」などと訊き返すのだ。そういう発想の人の疑問符はなかなか消し去ることはできない。だって、「読書推進活動」を生業としていて最初から僕は職種を答えているからだ。
だけど彼らの言い分もわかる。
「読書推進業」みたいな職種はないだろうから彼らが理解に苦しむのはよく分かるんだ。全国探せば「読書推進」に伴う事業を行っている人はたくさんいて、事業所はそれなりにあるかもしれないが、それを専門に、それを生業として、ましてや会社を設立して取り組んでいる事例は稀だとおもう。
その“稀”なところが、オンリーワン企業として注目される理由でもあったのだけど。
僕の会社『ホンヨム』(説明しなくても分かると思うが「本読む」から命名)は主に地方自治体から仕事の依頼を受けていた。
若者の活字離れが社会問題となっている背景があり、文部科学省が取り組んでいる「子供の読書推進」に関する事業が大きく影響していた。
僕は10年ほど前から「読書推進活動」を始め、絵本の読み聞かせや好きな本の交換会などといったイベントを企画運営してきた。
最初の頃はボランティア活動だった。
もちろんそれを生業とすることなんて想像も出来てなかったし、考えたこともなかった。ただ自分がやっていて楽しかったから続けられていたのだ。始まりはその程度だった。
やがてその活動を二三年継続していると次第に変化が現れだした。
活動に興味を持つ仲間が集まり、協力者が増えてきたのだ。特に求心力、発信力がみるみると増強し拡大していった。それと同時に僕の企画するイベントにあちこちから依頼が来るようになった。
そのほとんどは図書館からだった。図書館というものは各都道府県、市区町村にあり合計すると全国で三千館を超える。
僕の住む県であり、商圏となる県でも九十館ほどあるのだ。さらに民間企業が所有する図書館や私立図書館、車による移動図書館も含めると結構な数になる。
そんな図書館の職員から電話をもらったり、人づてに紹介され教育委員会の担当者に直接依頼されたりもした。
ずっと継続してきたボランティア活動が実を結んだという向きもあった。さらには広告代理店やイベントを企画運営する企業などからも問い合わせ及び依頼があり僕は嬉しい悲鳴を上げた。
ムーブメントが巻き起こっているのを感じざるを得なかった。
そんな流れで僕は「読書推進活動」を生業とするために、これまでのボランティア活動ではなくビジネスとして事業化することを決めた。
もちろん流れで決められるような簡単なものではなかったが、僕には確信にも似た自信がどこからともなく湧いてきていた。
事業化の話を聞いた誰もが驚き、「嘘だろ?」と信じてもらえなかった。彼らは僕から聞いた話を絵空事のように捉え、「実現したら楽しそうだね」と夢物語の感想のように述べた。
僕はそれ以前から漠然と考えていた。
こんなにもやってる本人が楽しくて、こんなにも多くの人に必要とされて、多くの人に喜んでもらえてるこの活動を「事業化」して仕事になったら最高だなあ、と。
この時はまだ具体性はなくなんとなくだったんだけど、その活動を特に熱心にやってくれていた大学生の女の子の前で「これをいつか仕事にするよ」と誓ったんだ。オリンピック選手が金メダルを取る、と目標を口にするみたいに。
その女の子も「会社つくったら雇ってくださいよ」と言って笑ってた。
「毎日依頼が途絶えず忙しくてこき使われるぞ」と僕も笑って返したのだけど、実際の話、それが現実となったのだ。
僕はその当時勤めていた印刷関係の会社を辞め「読書推進活動」に専念することを決めた。その会社の社長も僕のやっていることに以前から関心を持っていて一定の評価もしてくれていた。
「読書推進活動」のイベントは土日や祝日といった会社の休みの日に開催していたため、社長はイベントに必要な機材や備品などの運搬に社用車を使わせてくれていた。日頃から何かと協力してもらえていて感謝していた。
にも拘らわず会社を辞めることについて少なからず罪悪感はあったが、僕が抜けたところでその会社が困る訳ではない、さしてそれほどの戦力になってなかったじゃないか、と自分を蔑むことで気持ちの折り合いをつけた。
自分勝手な話ではあったが社長は「頑張りなさい」と言ってくれた。そして僕には「頑張る」しかなかった。
僕は頂いた依頼を片っ端から受けスケジュールを次々と埋めていった。
なりふり構わずという言葉がぴったりとはまる行動だった。不安が付きまとわないように不安が入り込む隙間を埋めるような行動でもあった。
徐々にではあるが活動範囲も広げおよそ日帰りで帰ることの出来る地域なら、たとえ帰り着くのが夜遅くになるとしてもその依頼を断らなかった。そもそも依頼を断る気持ちがなかったから、とんでもなく的外れな依頼でない限り断ることなく全てを受けた。
事業を始めた当初はイベントを受託する際の価格設定が確立されておらず曖昧で、儲かるケースと儲かるはずのないケースが(やる前から赤字覚悟のものも)あった。
そのため経営的には、できの悪い弥次郎兵衛のように安定せず大きくぐらぐらと揺れる危うさがあった。
そんな危うさを孕んだ事業がのちに躍進を遂げたのには僕がショートスリーパーだったことが少なからず起因していた。
ショートスリーパーとは短い睡眠時間で健康を保っていける人間の事であり、その睡眠時間は6時間未満と言われている。
僕はといえば、3時間あればへっちゃらだった。考えてみてほしい。人の平均睡眠時間は7〜8時間程度で、それが健康的とされている。眠らないというだけで人より4〜5時間は余分に自由に使える時間があるのだ。僕はその時間をフルに仕事に使い、一日20時間近く働くこともあった。睡眠時間以外の時間をほぼ労働に当てていたのだ。
平均労働時間を8時間として一日に約2.5人分の仕事を僕は一人で熟していたことになる。
もちろん人件費削減にもなったし、経費削減にもなった。何より仕事のスピードが早かった。自明の事実、会社のトップが営業活動から企画運営、準備作業、機材運搬、現場設営、当日業務、撤収作業などといった一連の業務を八面六臂の活躍ですべて熟すのだから早いに決まってるし、企画した本人がすべてをやるからこそ間違いがない(うっかりミスは仕方ないとして)。
内容を理解していないスタッフのミスや、報告や連絡のミスで発生するロスとか、見習いスタッフによる不手際 とか、そういったものはほぼ皆無だった。
人手が必要な場合にはアルバイトを雇い、しっかりと基本的な指示を与えた上で自由に楽しんでやってもらうことを心がけていた。ボランティア活動で培ってきたアマチュアイズムみたいなものがあった。
楽しさは連鎖する。運営するスタッフが楽しくやっている姿を見て参加する人も楽しくなるのだ。だからそんな一部のアルバイトスタッフによる業務も概ね問題なく遂行され、イベントはいつも高いクオリティを維持でき依頼者の評価も高かった。
たくさんの来場者に喜んでもらえていた。それが僕には何よりの報酬だった。人の2.5倍働く動機にはそれで充分だった。
必然的に行政の委託事業も受ける件数が増えた。その多くがプロポーザル形式で年間事業のものが多かった。文部科学省の命を受け地方自治体が「読書推進」に関する課題を上げ、それを解決する又は解決に向かう事業案を募集するのだ。
『ホンヨム』は常に様々な企画を(立案中のものも含め)、提案できる事業の候補を数多く有していた。そのため出来る限り行政の委託事業には応募した。これまでの実績もあるし、各地域の図書館での評価が高かったことが功を奏した。たとえ何社かライバルがいたとしてもいつも『ホンヨム』が受託することができた。
僕らの企画が通らないなんてことは考えられないほどに、いつの間にか世間が僕らを認めてくれていることを結果が教えてくれた。
だから僕はどこまでも頑張った。「読書推進業」という、これまでなかった職種をつくったんだという自覚と誇りを持って。さらに「読書」に関する事業を発展させた新企画を展開することになり益々忙しくなった。その忙しさによる過労が原因か定かではないが、この頃から僕は睡眠による問題を抱えるようになっていった。
ショートスリーパーとは関係なく(あるのかもしれないが)睡眠障害の疑いがあって、その頃一度だけ病院に行った。
元々健康体で病院に行くことなんてなかった自分が病院に行くということは、それなりに放ってはおけない不安要素があったのだろう。不安におもえる兆候とかがあったのだとおもう。そんな細かなところまでは思い出せないのだが、とにかく僕はその頃病院に行ったのだ。
つまらなさそうな顔をして、しわだらけの白衣を着た五十代後半かの痩せ細った男性医師が、もう診察はこりごりだ、みたいな口調で「少し休養を取られてください」と言った。
僕は「あなたの方が休養を取った方がいい」と口にしそうになったが、医師はそう言い終わると役目が終わったみたいにカルテに何やら書き込んでいた。
「もう、うんざりだ」と書き込んでいたのかもしれない。それでカルテを覗き見ようとしたことを覚えている。
永遠のように長い待合室での待ち時間。少なくとも一つか二つ、その病院に足を踏み入れた時より歳をとってしまったようにおもえた。
その待ち時間とは釣り合いが取れない、目の覚めるほどの速さの診察。僕は十代の頃に生で観戦したフォーミュラ・ニッポン(現スーパーフォーミュラ)のレーシングカーを思い出した。それはあっという間に過ぎ去った。僕はフォーミュラ・ニッポンの観戦チケット代にも似た驚くほど高い診察料を、何にこんな金額がかかったのか疑問におもいながら支払った。それは座っていた待合室のソファーのチャージ料だったのかもしれないとふざけた感想をもって憂さを晴らしたりもした。何に効くのかもわからない薬を受け取って僕は病院を後にした。
それ以降、病院に行くことはなかった。
ボランティア活動の頃も含めて「読書推進活動」を始めてちょうど10年目の年に僕は倒れた。
正社員2名、アルバイトスタッフ5名を雇えるほどには事業は成長していた。
「今年は10周年だから盛大にお祝いしよう」とスタッフに言っていた矢先だった。
突然に過呼吸になり頭の中がぐるんぐるんと回った。
自分がどこに居るのかもわからなくなって立っていられなくなった。目の前が真っ暗になった。
「落ちつけ、落ちつけ」と心の中で念じながら見苦しいほどに取り乱していた。「死ぬんだ」とおもって、「死んでもいい」とおもった。そんなふうに死ぬことを考えたら死の恐怖が襲ってきた。それがさらに呼吸を困難にさせた。
みっともない姿だ、こんな姿を誰かに見られるくらいなら死んでしまいたい、とおもっていると誰だかの視線を感じた。
「やつらだ」やつらが笑ってる。
ざまあみやがれ、と言って唾を吐きかけてる。
誰だかが僕の側頭部を蹴った。革靴らしき靴の爪先が僕の耳の上付近にあたり鈍い音がした。耳から聞こえる音ではなく頭蓋骨を共鳴して頭の内部で聞こえる鈍い音だ。それを見て誰かが助長するように笑い、別の誰かが反対方向からサッカーボールを蹴り上げるように僕の顔面を蹴った。
やつらは全員で笑った。僕は鼻の辺りが熱く感じた。恥ずかしくて顔を真っ赤にしたような熱さにもおもえたし、燃え盛る炎のなかに放り込まれたような熱さにもおもえる、ひどく取り留めのない熱さだった。
頭の中はまだぐるんぐるんと回っていた。
僕は完全に心が壊れてしまった。
その直接の原因は随分と前の話になる(話せば長くなる、ここでは触れない方がいい)。
そのことから逃げるように僕は仕事に打ち込んできた。なんとかギリギリのところで耐えてきたんだ。危なっかしい綱渡りのような状態だったけど、なんとか歩み続けてこれてはいたんだ。あくまで自己評価だが。
その道の途中で素敵な数々の出会いがあったように、そうとは言えない最悪な出会いがあったんだ。
やつらとの出会い。それが最終的なトリガーとなった。
どんな世界にも多かれ少なかれ嫌な人や苦手な人はいるもんだ。そのくらいは僕にもわかる。でもそこで出会った人物はちょっとレベルが違った。悪意のレベルが違う敵キャラだった。
そもそも手負いの僕は、仕事でも心をすり減らしていて(経営者としての精神的な疲労等により)、やつらと戦う以前にそのパワーは残っていなかった。その敵キャラと出会ったことで、これまで僕は素敵な人たちに囲まれて仕事をしてきたのだと実感した。それは幸せなことだったのだと噛みしめた。
皮肉にもやつらがそれを教えてくれた。
世の中にはそんな素敵な人間ばかりじゃないよ、と、傷つき倒れた僕にそのことも教えてくれた。
じつに親切に。じつにいやらしく。
やつらは辛辣に罵った。何度も口汚い言葉を吐き、何度も頭を蹴り、何度も何度も心を斬りつけてきた。
そしてとどめを刺された。ゲームオーバー。
僕はあの時、やつらに殺されたんだ。
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