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{6}彼女の花柄ワンピース 三か月前②
空き家になってから1年半だか2年だかになるらしかったが、僕は赤松さんの奥さんが事前に室内を掃除してくれていたことを聞いていた。
赤松さんより十歳程若い四十代後半の奥さんは僕とさほど年齢差はない。見た目も若くて美人で(父がよく昭和の名女優に似てると言っていたが、顔は思い浮かぶが名前は出てこない)、その容姿を裏切ることなく綺麗好きな女性だった。
空き家は実際に見たところさほど悪い印象はなかった。築年数は正確には聞いていないがそれなりに古い一軒家のようではあった。だが十分に快適な生活を送れそうな予感がした。
「外見よりは案外きれいなのね」とマイが言った。
赤松さんの奥さんが「室内の掃除はあらかたやったのだけど庭とか家の回りまでは行き届かなくて」とすまなそうに言っていたと赤松さんから聞かされたことを思い出した。
マイは「おじゃまします」と言って僕より先に靴を脱ぎ廊下の框に上がった。玄関に見慣れない小さな可愛らしい靴が脱ぎ散らかされた。白地にピンク色のラインが特徴的な運動靴だった。僕はグリム童話『靴屋と小人』の話を思い出した。靴職人のおじいさんが眠ってしまった夜に小人たちがおじいさんに代わって靴をつくる。彼女の靴は小人たちがつくった靴のようだった。
僕はその靴の爪先を反対に向けて揃えそのすぐ横に自分の靴を並べた。大きさの違う二足の靴を眺めながら、何故か自分がこの少女とこの家で一緒に暮らすことを思い浮かべた。
グリム童話のキャストの一員に加わるような気分だった。しかも彼女は主人公だからメインキャストに絡むとても重要な登場人物らしかった。
不思議とそれは有り得ないこととはおもえなかった。そもそもこの少女はすでにこの家に住んでいて、自分があとから転がりこんできたようにおもえていたからだ。
「助かった。今晩、泊まるところがなかったんだよ」と僕。
玄関のドアは開けたままにしていた。例えばそのドアを閉めてしまったらそこからまた別の深いところに引きずり込まれて、自分の身にもっと不思議なことが起こるかもしれない。それがもしもグリム童話では済まない二度と引き返すことのできない類いのものだとしたら。何となくだけどそんな用心をするくらいに、僕は彼女が現実の世界に存在することをまだ完全には認めることができなかった。すこし不思議におもっていた。
「一人なの?」とマイが訊いてきた。「あなた一人なの」と。
既婚者なのかと訊かれたような気がしたが子供がするような質問じゃない。彼女はここに一人で住むのかと訊いているのだろう。
「一人だよ。一人にはちょっとばかり大きすぎる気がしないでもないけどね」
自分にも同意を求めるように家の中を見渡しながら答えた。
「ふうん」とマイは自分で訊いておきながら大して興味もなさそうに返事をした。それがどうかしたの?が内包しているような返事だった。
玄関の外で風が吹く音がして一瞬心臓が躍った。風に吹かれて玄関のドアが閉まったら二度と引き返すことができなくなるかもしれない。もっと別の深いところに引きずりこまれてしまうかもしれない。その玄関ドアは恰も現実と幻想の境目のようで、その玄関ドアが開いていることが現実と幻想がつながっていることの証のようにおもえていた。
この家に入るときからそんな何かが痞えていた。何か良からぬ事態になった時は玄関のドアから外に出ればいい。それで助かる筈だ、そう考えていた。この感覚は金縛に似ているともおもった。金縛の解き方ならなんとなくわかっている。深いところに引きずり込まれる前に必死に抵抗して対処するんだ。だけど。
対処が遅れると体が硬直し全く動けない場合もある。自分に良からぬもの〈幽霊やそういったもの〉が近づいてくる。恐怖を感じ逃げだしたいが体が動かない。目を閉じてそれが過ぎるのを待つしかないのだが一方で目を開けてそれが何か知りたいという好奇心もある。怖いもの見たさといったところだ。どうしようもなく恐怖を感じながら、どこかで大丈夫だ、と高を括っているのだ。僕は自分の目に見える範囲で不思議な現象が起きる前兆を感じとっていた。それはまだ起きていないが既成事実のようでもあった。既視感だ。すでに起こってしまったことに擬えているようだった。一度リハーサルでやったことをもう一度本番でやるといった感覚に似ていた。
僕は風の音を聞いて慌てて玄関の方を振り返ったが、ドアは閉まるのとは逆の方へと思い切り開き何かにぶつかる音がした。
(いつだか聞いた音と同じだ)。
「玄関のドアが開きっぱなしよ」
諭すようにマイが言った。
「空気を入れ替えようと思って閉めなかったんだ」
僕は咄嗟に言い訳をして玄関の外を見に戻った。何にぶつかったのかは分からなかった。何かがそこにいた可能性もなくはないがそれについて考えることはしなかった。逆探知をする時間を稼げそうになかったからだ。
僕は玄関先に置いてあった植木鉢やプランターがいくつも重ねられて収納されているコンテナをずらして、玄関ドアを開けた状態で固定した。
(いつだかもこうやって対処したような)。
これで幻想の世界に閉じこめられることはないだろう。
すると部屋の中から彼女が呼ぶ声がした。僕は玄関で靴を脱ぎ小さな可愛らしい靴のとなりにまた並べて、その靴の持ち主のもとへ駆けつけた。
マイは10畳ほどの広さのダイニングルームにいた。
古い一軒家だがこのダイニングルームは明らかにリフォームされていた。そんなに大きくはないがキッチンもカウンター越しに繋がっていて広い空間に見えた。二部屋あったものを壁を取っ払って一部屋にしたような形跡が天井の形状に見て取れた。他の部屋が無くともこの部屋だけで十分に生活ができそうだった。
彼女はダイニングルームのガラス戸を開けようとしていた。彼女の細く小さな体の背後にある床から天井にまで伸びる大きなガラス戸が蝶の羽のように見えた。
午前の明瞭で活発な太陽光が庭の木々の生い茂げ重なり合う葉の隙間を、巧妙に通り抜けてガラス戸を繊細な切り絵のようにまだらに輝かせていた。それは白く光り羽の模様に見えた。彼女は白くて大きな羽を持つ蝶のようだった。
「空気を入れ替えるのならこのガラス戸を開けた方がいいわ」
マイは的を得たことを言いながら羽を広げるようにガラス戸を開けた。
庭からやわらかな風が心地よく吹きこんできた。その風はまるで魔法のように僕に目掛けて吹いてきた。僕は自分に向かって吹いてくる風というものを初めて見た。可視化された風を見た。部屋の空気に外からの風が割って入る。動きのない空気と動いている風。その境目をかたちづくるように風の輪郭線が見えた。「我こそは風なり」とでも言っているようなその線には、視覚的には自己主張のつよさがあったが体感的にはひたすらにやわらかい風だった。
もしかしたらその時その風によって何かの魔法にかけられてしまったのかもしれない。すべてはその蝶の姿をした魔法使いの思いのままに。僕はその魔法をかけてきた張本人に視線を定めた。
「僕はこの子に魔法をかけられてしまったのだろうか」
現実と幻想の狭間で吹く風が曖昧に彼女の前髪を揺らしていた。そして玄関のドアはしっかりと開かれたままだった。
「で、ほんとうにあなたは一人なの」と前髪を指で整えながらマイは言った。
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