{7}眠ることを知らない姫と走る象

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{7}眠ることを知らない姫と走る象

彼女は毎日のように僕の家にやってくる。 大体朝の9時前にやってきて夕方5時過ぎになると帰っていく。まるでこの家に勤務しているかのように。タイムカードは押さないが(そんなものはない)、決まった時間に出退勤しているようだった。 週に一度だけ金曜日か土曜日を休日のように全く姿を見せない日がある。最初のうちは彼女が姿を見せないことを不安に思ったが、そのうち自然と「今日はマイは休みか」と納得するようになっていった。週一休みの六日勤務だ。勤めている訳ではないのだけど。 でもそんなことより本当は13歳という年齢からして中学生であるはずの彼女が、学校にも行かずほとんど毎日この家に来ていることを考えるべきなのだとおもった。 そもそも親は何も言わないのだろうか?本当に近所に彼女の家はあるのだろうか?彼女は何のためにこの家に来るのだろうか? 彼女がダイニングの椅子に座りテーブルに肘を付き、手のひらに顎を乗せぼんやりとした顔で雑誌をぱらぱらと捲っている姿を盗み見ながら考えてみた。だけど、そんなことを考え出すといつも決まって睡魔に襲われた。まるで魔法にかけられているかのように唐突に深い眠りに落ちていくのだった。 「真昼間っからよく寝てられるわね」 マイが言った。 「ちょっとした昼寝だよ。こうすることで午後からの仕事の集中力が高まる」 寝起きだった所為もあり完成度の低いでまかせの言い訳をした。 僕はダイニングのソファーの上で眠っていたようだった。慌てて壁掛け時計を見る。午後1時52分。午後からの仕事があるとしたらすでに手遅れな時間かもしれなかった。 「ぼくはどのくらい寝ていたんだろう?」 「ずっとよ」 マイは僕が永遠の眠りについていたかのように言った。 「眠れる森の中年男」 眠る僕は彼女の口づけで目を覚ますんだ。 「ばかじゃないの」 軽蔑するようにマイは言った。僕の妄想に腹を立てたのかもしれない。 「眠れる森の中年男を起こす理由がどこにあるの?そこに永遠に眠り続けてりゃいいのよ」 悪魔?とみまがう天使のお言葉。 「僕を救おうとするお姫様がいるんだよ」 そしてお姫様は僕に口づけをする。彼女みたいな子どもではなく、成人女性のお姫様だ。 「いるの?」 「なにが?」 「お姫様?」 僕は少し考えてから「いない」と言った。考える必要なんてなかった。僕はそこに眠り続けるしかなかった。 「かわいそうに」 マイは憐れむように僕の顔を見ながら言った。「あたしが起こしてやるしかないわけね」 彼女は僕に口づけをするんだろうか?十三歳の少女が四十歳の中年男に。そこには何かしらの物語がありそうな気配を感じたが、当の彼女は僕のことを哀れんで老人介護でもするようなニュアンスで極めて現実的に言ったに違いなかった。そこに物語は存在しない。 「鼻をつまんでやるわ」 マイは自分の鼻を右手でつまんで見せた。「苦しくなって起きるわよ。それで起きなきゃ往復ビンタ」 それは老人介護ではなく行き過ぎた教育的指導のようだった。 「それならもう眠ってたいね」 僕は攻められっぱなしだったが彼女の口撃をしっかりと受け流している姿勢を保ちながら笑って返した。 「永遠に?森でよ」 マイは真面目な顔をして言った。 僕は森で眠り続けることについて考えた。 深い森の中で、草木の茂みで、空を見上げるように仰向けになって眠っている。 僕は森の一部になって溶け込むように、そこに同化するように眠っている。枕元に(枕などないが)、目覚まし時計はない。そこで僕は永遠に眠る。 でもそれ以上具体的に想像することはできなかった。僕は目覚まし時計が鳴らなくても一定の時間を経過したら目が覚める。それは一般の人の平均睡眠時間より随分と短い。僕は短眠者(ショートスリーパー)なんだ。いつまでも眠っていられないのだ。 そこで、「永遠に、眠れないとしたらどうだろう?」と僕は言ってみた。 「狂うわよ。狂って、そして狂い死ぬわ」と言ってマイは少し考えていた。 狂い死ぬことについて考えているように見えた。少し間をおいてから「狂い死ぬくらいなら永遠に眠るほうがマシよ」と言った。 「だったら往復ビンタのほうがまだマシだ。往復ビンタを我慢したほうが良さそうだ」 「かもしれない」 マイが笑った。他人に気づかれないように二人だけの秘密、といった笑い方だった。 深い森の中で眠る男は短眠者。 そこに通りかかった眠ることを知らないお姫様。 短眠者の男は眠り続ける。だが永遠に眠り続けるわけではない。男はたびたび目を覚まし、またすぐに眠る。それをひたすら繰り返している。 男が目を覚ますと目の前に姫がいるのだけれど、彼女の問いかけに答える間も無く次の眠りに落ちてしまう。男の浅い眠りの中に目が覚めた時に見た姫の姿が現れる。男は姫に声をかけ、姫はそれに答える。二人は森の中で一時の会話を楽しむ。男は姫のことを運命の人だと思い、姫は男のことを運命の人だと思う。男は姫に口づけをしようと顔を近づける。姫もそれに応じるように顔を近づける。お互いの唇が触れるか触れないかの刹那に男は目が覚める。 目を覚ましてもなお森の中にいて目の前にお姫様がいる。 姫は「あなたはどうして眠れるの?」と男に訊いた。「わたしに眠る方法を教えて」と男の両肩を激しく揺さぶりながら言った。 そのすぐ真横を象が走っている。一頭ではない、何頭かが走っているようだが確認できるのは一頭だけだ。男の耳元を象の太い足が地響きを立て通り過ぎ土埃があがる。土埃は妖しく鼻腔をくすぐる。男は悦楽にひたり噎せるように咳をしながら「なんで象が?」と言い残してまた次の眠りに落ちる。 姫は「あなたはどうして眠れるの?」と叫ぶように男の両肩を激しく揺さぶりながら訊きつづける。男は眠りに落ちながら、姫に口づけすることを考えている。 そのすぐ真横を象が忙しなく走っている。行ったり来たり。行くときも来るときも、男の耳元で地響きを立て土埃をあげた。その度に土埃は媚薬のように妖しく鼻腔をくすぐる。 「ぼちぼち仕事に取り掛かるかな」 僕はそう口にしてみた。 「そもそも仕事らしきことしてないじゃない」 マイが言う。わざと嫌味ったらしく言っているようだった。 「そんなに齷齪働くことはない」 子ども相手に何言ってんだろ、と思いながら僕は言った。「でもかつては寝る時間もないくらい働いていたんだ。あの頃はやり過ぎだったと反省してる」 「だからいま寝てる」 「かもしれない」 気がついたら二人して笑っていた。 マイがそれなら何時間寝るといいみたいなことを言って笑った。何時間と言ったのか聞き取れなかったが僕は冗談の続きのように聞き入れて笑った。 僕は少し前から気がついていた。他の誰かに言われたとしたら耐えられないかもしれないと思うことも、彼女から言われるぶんには平気でいられた。それはただ彼女が子どもだからだろうか。 医師はつまらなさそうな顔で「少し休養を取られてください」と言って、何に効くかわからない薬をくれた(結局一回も飲まなかったが)。 「圧倒的な喪失感」によって齎されたのは致命的な影響だった。 僕を殺した、心を殺したやつらからは口汚く罵倒された。 あの頃のことは今でも思い出したくない。慎重に用心深く避けている。そこに触れることで「圧倒的な喪失感」が支配する虚無の世界がまたその存在感をつよめるかもしれない。そのことを恐れ盲目的に距離を置いていた。 なので僕はいま自分がこうして笑っていることが不思議でならなかった。 この頃から僕の夢に度々現れる象もまた不思議ではあったが、マイと過ごす日常があまりに現実的で、僕は不思議の世界からすぐに連れ戻された。 マイがいなければ、当たり前のように僕は一人だった。 だとしたら僕は、今頃は不思議の世界で彷徨っていたのかもしれない。何頭かの象と一緒に。
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