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貴族の御前
梅雨が過ぎると一気に蒸し暑くなった。男が多い教室はむっとして、入って来る教師はみんな顔をしかめ、女子は男子、特に太っている西川や田口を煙たがった。僕らは肩身の狭い思いをしていた。入学当初から僕らの席順は男女別の出席番号順になっていたから、全体の七割を占める男子は窓際に固まっていた。外から風が吹き込んでも男子のせいで汗臭いと女子の一人が文句を言い、僕らも体格の大きい男ばかりが密集している状態には辟易していたから、期末テスト前にようやく一回目の席替えをすることになった。くじ引きでの席替えの結果、偶然にも僕の席は変わらなかった。変わったのは前後の人だけだった。前の席には背の低い大人しい女子が。そして僕の後ろの席には村神が来た。
正直僕は村神のことが気になっていた。理由は二つある。一つは彼が「貴族」だから。貴族とはどういうことなのか興味があった。もう一つは、教室の後ろに張り出されているテストの結果表の一番上に常に彼の名前があったからだ。彼の名前は入学してからどの教科においても常に一番上にあり続けていた。村神がみんなから距離を置かれているのは彼が「貴族」であることに加えて畏敬の意味での近寄り難さがあるからかもしれない。このクラスで純粋な友情を諦めた僕は、大学受験に勝ち抜くという目的のために級友ですら利用しようと目論んでいた。彼と仲良くなれば、分からないところを教えてもらえるかもしれない。彼が近くに来て僕は嬉しかった。
授業が終わった後で、僕は勇気を出して村神に話しかけた。
「期末テストの勉強さ、何やってる?」
何気なく話しかけたつもりだったが、村神は面食らったように驚いていた。帰り支度をしている手を止めて僕を見つめた。僕は失敗したと思った。村神と話すのは初めてだし、自己紹介からした方が良かったかもしれない。しかし、入学して三ヵ月も経って自己紹介するのも、なんだかおかしな話だ。
「何って、教科書読んで、参考書やるくらいだが」
村神が答えた。
「そりゃそーだよね、僕もそう」
会話が終わってしまった。村神が不審そうに僕を見ている。アウトサイダーを決め込んでからまともに人と話して無かったからコミュニケーションの取り方を忘れてしまった。
「村神くん、物理、得意だよね」
「まぁ、それなりに」
「僕物理が今のところちんぷんかんぷんだから教えて欲しいんだけど」
利用しようなどと思った僕が馬鹿だった。そんな器用なことは僕には出来ず、気づいたら早口で本音を白状していた。仲良くもないのにいきなり勉強を教えろだなんて、図々しかっただろうか。ちらりと村神を窺うと、村神は「ああ、なんだ、そういうこと」と呟き警戒を解いた。それからしばらく顎に手を当てて考えた後、
「いいだろう、ついてこい」
と言って教室を出た。
「ねぇ、村神くん、どこに行くつもりなの?」
村神は駅に着くと電車に乗った。言われた通り切符を買い、駅のホームで電車を待つ。行き先は行ったことのない地名だった。商業施設もなく、観光地もない、ただ高速が通っているだけで、どこどこに行くための通過点という認識しかない土地。
それから、あの事件があった町。
「屋敷に帰るんだ」
「屋敷って、村神くんちってこと? 勉強なら教室でやっても良かったんじゃない? きっとテスト前だから残って勉強してく人も多いだろうし……」
僕は緊張していた。村神は先ほどからにこりともしない。何を考えているのかまるで分からない。自分から話しかけておいてなんだが、二人きりというのは気が重かった。
「教室はどうせすぐにうるさくなる。人と一緒に勉強すること自体がそもそも非効率的なんだ」
僕はどきりとした。怒っているのだろうか。
「だったらどうして僕と一緒に勉強を?」
「お前は教えて欲しいんだろう、俺に、物理を」
「うん、まぁ、そうだけど」
「一人で悩むより分かる人間に教わった方が効率的だ」
「そりゃそうだけど、でもそれは僕にとって効率的って話で、村神くんにとっては他人のために時間を割くのは非効率的なんじゃないの?」
村神がさっきからあまりに不愛想だから僕もだんだん心が折れかけてきた。
「そうかもしれないが、俺は貴族だからな。困ってるやつがいたら助ける。市民や農民に施しをするのは特権階級の義務のようなものだ、気にするな」
出た、貴族。まさか自分で言うとは思わなかった。驚いて村神を見つめると村神は真顔で僕を見つめ返した。
「どうした」
「いや、その貴族ってさ、何なのかなと思って」
さっきから自分の家のことを屋敷って言ったり口調が役者がかっていたり、おかしな点があったが、決定打を捉えた。
「貴族って言うのは、特権を備えた名誉や称号を持ち、それ故に他の社会階級の人々と明確に区別された社会階層に属する集団のことだが」
不思議そうに村神が答える。こいつはもしかしたら天然なのかもしれない。
「いや、それは分かってるよ。僕が訊いてるのは、君が貴族って一体どういうこと? ってことだ。貴族制度なんて今の日本にはもうないだろ?」
「ああ、なんだ、そんな些細なことを気にしていたのか。俺が持っている側の人間ってことさ」
持っているって、何を持っているんだろう。お金? それとも権力?
「なぁ、それってどういう……」
電車の風を切る音で僕の言葉は遮られた。電車が一番線に停車する。ドアが開いて乗客がまばらに出てくる。
「これだ、乗るぞ」
貴族とはかけ離れた風貌の少年を追いかけて僕はいつもとは違う電車に飛び乗った。
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