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お泊り
夏休みが始まっても僕の生活は学校があった時と大差なかった。どんなに頭が良いやつが取り組んでも一日五時間は要する量の課題が出され、さらに希望者には東大、京大、早慶の過去問といった特別課題が与えられ、お盆に入るまで教室では連日夏期講座が開かれていた。僕は夏休みのほとんどを学校に来て勉強して過ごした。午前中の夏期講座が終わるとコンビニで昼ご飯を買い、午後もそのまま教室に残って課題をやった。教室はクーラーがついていたし、難関大学の入試問題を先生に教えてもらうことも出来た。(先生たちも夏休みに入ると余裕があるらしく、問題を聞きに行くとみんな快く教えてくれた。)
何より学校に来れば村神がいた。村神は夏期講座のほぼ全てに参加していた。夏期講座は座席が自由だったからいつも僕より早く席に着いている村神を見つけると隣に座った。
その日の午前中は全部数学だった。最初の九十分は実際に出た入試問題を先生が解説し、次の九十分は同じ単元の別の入試問題を実際に自分で問いてみる。答え合わせまでして終了。この日僕らが取り組んだのは二年前の京大の入試問題だった。結局僕は自力で最後まで解くことが出来ず、その上解説を聞いても納得できなかった。悔しくてみんなが教室から出て行っても微動だにせず自分の解答を睨んでいたら頭上から声が降ってきた。
「考え方は間違ってない。ただ、ここが間違ってる。割算が逆」
指差された余白にした筆算を見ると、確かに、割合を求める式の分母と分子が逆になっていた。
「あっ、ほんとだ! うわー! って村神。帰ったんじゃなかったの?」
顔をあげるとコンビニの袋をぶら下げた村神が立っていた。
「今日は午後も学校で勉強してこうと思って」
「珍しいね、いつも帰るのに」
村神が隣に座りコンビニの袋からおにぎりを取り出した。
「今日は屋敷で昼食が出ないからな」
「ふーん、何かあるの?」
「……まぁ、ちょっとな。それとお前その問題、考え方間違ってないけど計算式煩雑になってミスしやすいから模範解答のやり方でやったほうがいいぞ。時間もかかるし」
「言われなくても分かってるよ」
模範解答の発想が出来なかったんだから仕方ないだろ。僕は知っているものしか使えないんだ。僕がふてくされていると村神が世界史の教科書を差し出してきた。
「え、何?」
「読んで」
「今?」
「そう、付箋貼ってるところから。飯食べてる時間がもったいないだろ」
これは、懐かれ始めたと捉えていいんだろうか? 単なる小間使いのような気もしなくもない。確かに提案したのは僕だけど。僕はため息をついて世界史の教科書を受け取った。村神が食べ終わったら僕も昼食を買いに行くことにしよう。
「てか村神って、日本史Bもやってるのに世界史Bもやってるの?」
渡された分厚い世界史Bの教科書を見て僕が訊く。基本的にどちらかがBでどちらかがAの授業組みになっているはずだった。
「俺の志望校は両方必要なんだ」
「村神、もう志望校決めてるの? どこ?」
「内緒」
村神が微笑んだ。最近は心を許し始めてくれていると感じてたけどそんなこともなかったのかもしれない。
「しょうがないな、じゃあ読むよ。てかすごいね、付箋のところまで一人で進めたの?」
「いいから早く読んで」
「分かったよ」
全く、絵本の読み聞かせをせがむ小さい子供みたいだな。全然可愛くはないけど。
「えーっと……一八世紀のブルボン朝のアンシャン=レジーム下では対外戦争と宮廷の奢侈などによる財政難が進行し、ルイ十六世は貴族に対しても新たな課税を必要とし、その同意を取るために三部会を招集したが、そこに結集した第三身分の代表は、国民議会の開催を宣言し、憲法制定まで解散しないとして球戯場の誓いを行った。国王は郡代を動員して国民議会に圧力を加えて解散させようとした。宮廷で特権身分への課税などの財政改革を進めていたネッケルが……」
途中で読むのをやめた僕を不思議そうに村神が見た。
「どうした?」
「あのさ、村神って、どうして貴族になったの?」
初めて村神と話した日に聞いたことをもう一度訊ねる。あの時とは全然違う気持ちで。村神の開かれた目が僕を見つめた。僕があまりに真面目な顔をしていたから驚いたのかもしれない。
「……他人に話すような、理由じゃない」
それきり村神は何か考え込むように黙ってしまった。
それぞれ課題をやっていると見回りの先生が自習する僕らに「もう教室を閉めるから帰りなさい」と言った。気づけばいつの間にか教室には僕らしかいなくなっていた。僕らは席を立ち、帰り支度をして校門を出た。空は真っ赤に染まっていた。夕暮れの中を僕たちは駅まで歩いた。村神は昼からずっと元気が無かった。塞ぎこんでいるようだった。僕は村神に聞いたことを後悔した。
駅に着くと、一番線に電車が停まっていた。
「丁度良かったじゃん、じゃあ、また明日」
と言って僕が二番線ホームに行こうとすると、村神が
「次の電車にする」
と言ってベンチに座った。僕を引き留めているように思えて、僕も村神の隣に腰をおろした。一体どうしたんだろう。今日の村神は何だか変だ。
「村神、今日なんかあったの?」
「……別に」
電車のドアが開き、乗っていた人が一人二人と中から出て、列に並んでいた学生が電車に乗り込む。近くで蝉が鳴いている。
「ただ、今日はあそこに帰りたくない」
ぽつりと呟いた。僕は驚いて村神を見た。村神は正面の美容クリニックの広告看板を見つめていた。
「じゃあ、僕んち、来る?」
村神の横顔を見つめていたら思わず口走っていた。
「えっ」
こっちを見た村神と目が合った。
一番線の電車が発車し、僕らは二番線で電車を待った。
「俺、着替えとか、何にも持ってないんだけど」
「じゃあコンビニで買ってく? 僕的にはファミマのパンツがいいと思うんだけど、僕んちの近くセブンとローソンしかないんだよね」
赤かった空は電車から降りるともうすっかり藍色になっていた。通い慣れたいつもの通学路を友達と歩くのは随分久しぶりな気がした。今年の三月までは友達と一緒に通学していたのに。西の山ぎわに宵の明星が輝いていた。
「パンツはどこのでもいいけど、急に泊まりに行って大丈夫なのかお前んち」
「大丈夫だよ、さっき電車乗る前に母さんにラインしたし。オッケーだってさ。ほら」
母親とのライン画面を村神に見せる。母親の送ってきたスタンプのアニメキャラが親指を上げて感涙している。
「ふっ、バルトロメオじゃん、お母さんワンピース好きなの」
村神が表情を和らげた。
「僕が好きなんだ。このスタンプは僕が母さんにあげたの、自分が見たいから。母さんはどこの誰かもよく分からず使ってる」
「なんだそれ、ウケるな」
村神がははっと声を出して笑った。僕は初めて村神の笑顔を見たような気がした。やっぱり僕は貴族の村神よりも素の村神の方が好きだ。
「村神もワンピース好きなの?」
「唯一読み続けてるジャンプ作品」
村神も漫画とか読むんだ。思えば村神とこういう話をするのは初めてかもしれない。
「なんだよ、何がおかしい」
「いや? 貴族もジャンプ漫画読むんだなと思って」
照れたのか、むっとした村神が
「教養の一つだ。エスプリに富んだ会話のためには必要なんだよ」
と言ったもんだから僕は我慢できずに大声で笑ってしまった。
「エスプリだって。君ってジョークのひとつでも言ったことあった?」
「うるさいな」
暗闇でも怒った村神の顔が赤くなるのが分かったような気がした。
家に帰ると母親は僕が恥ずかしくなるくらい村神の来訪を喜んだ。
「ちょうど良かったわ、今日から私お盆休みなの仕事。まだお盆じゃないけどねー。清掃に入ってるビルが夏期休暇にはいったからさぁ。仕事ある日じゃ何のおかまいも出来なかったけど、良かったわぁ。夕飯ハンバーグと唐揚げでどっちにしようか迷ったんだけど、村神くん来るっていうから両方作っちゃった。お腹空いたでしょう? 夏休みなのに朝からこんな遅くまで勉強して偉いわねぇ。お父さんと私はもう先夕飯済ませちゃったから遠慮せず全部食べちゃって」
まだ玄関から上がって「ただいま」しか言ってないのにこの剣幕である。村神がうちの母親の勢いに若干ひいているのが分かる。
「ありがとう母さん、とりあえず手、洗わせて」
「あ、そーね、手洗いうがいして来なさい。村神くん洗面所分かるかしら、そっちの扉ね、タオルはかかってるやつ使っていいから」
「大丈夫だから母さん、僕が一緒に行くから」
逐一ついて来てナビをする母親を制し洗面所に一時避難して息をつく。
「ごめん村神、驚いたろ? うちの母親元気で……。構わなくていいってラインしといたんだけど……」
「いや、良いお母さんだな……」
母親に気圧されているらしく村神は呆然としていた。
「俺たち部活もやってないんだからこんなに肉食えないよ……」
目の前には手作りハンバーグと唐揚げの山。巨大な皿に盛られた森のようなレタスとジャガイモのサラダ。ラグビー部の合宿か。
「えー、そんなこと言わないで全部食べてよ、あんたたちしか食べられる人いないんだから」
母親も僕たちに合わせて食卓についた。
「なんでこんなに作ったのさ。別に構わなくていいって言ったのに」
「だって折角お母さん仕事ないし、それにあっくんが高校のお友達連れてくるなんて初めてじゃない? お母さん嬉しくってー」
村神が「あっくん」と呟いて僕を見る。やめてくれ、そんな目で見るな。そして母さん、そろそろ高校生の息子をあっくん呼ばわりするのはやめてほしい。
「村神くん会ってみたかったのよねー。いつもテストで一番なんでしょ? すごいわよねぇ。期末テストが終わってみんなが遊んでる時も村神くんだけはテスト前と変わらず一人黙々と勉強してたってあっくんが言ってたよー。最近あっくん村神くんの話しかしないのよ、この前も」
「ちょっ、ちょっと母さん! やめてよ」
あまりの居た堪れなさに慌てて僕が制止すると
「なんでよ、いいじゃない。お母さんあんたに友達いないんじゃないかと思って心配してたんだから、嬉しいのよ、村神くんがうちに来てくれて」
と母親は村神に微笑んだ。どうして母親と言うのはこうデリカシーがないのだろう。当たり前のことだけど親の前では僕はどこまでも子供のままなので、家での自分を見せるのは恥ずかしかった。母親は僕以上に村神に話しかけ、質問し、村神は戸惑いつつも「はぁ」とか「いえ」とか母親のおしゃべりの十分の一程度の返事を返していた。僕らが食卓で騒いでいると風呂から出てきた父親が「おっ、敦の友達か!」と言って晩酌しに出てきて会話に加わるものだから僕らは夕飯を食べ終わるのに二時間もかかってしまった。村神は学校での一年分の会話を一気にしたくらい僕の両親と話す羽目になった。
「なんか、ごめんな、うちの両親騒がしくて。逆に落ち着かなかっただろ」
僕の部屋に布団を二つ並べて寝る支度をする。狭い六畳の子供部屋に並べた布団は端が少し重なり合った。
「いいや、楽しかった。いい家だな、お前んち」
ごろりと客用の布団に寝転がった村神は穏やかな表情で、仰向けになってそのまま目を閉じた。
「それならいいけどっ」
僕も隣に敷いた自分の布団に寝転がる。村神の頭からうちのシャンプーの匂いがした。
「……意外だった」
「へ? 何が?」
呟いた村神を見ると、眠いのか目を閉じたままだった。
「お前、家族のことあんまり好きじゃないのかと思ってたから」
「えっ、なんで」
「家の話とか、親の話とか、学校で全然しないから。それに」
ふいに言葉が止まる。
「それに?」僕が訊き返す。
「それに、俺が施設育ちだから、俺と仲良くなろうと思ったんだろ? 仲間だと思われたのかなと、思った。だけど俺が勝手に思ってただけだったな、それは。お前の両親は、良い親だ」
僕はどう答えていいか分からなかった。
「あー、学校であんまり家族の話しないのは、まぁ、なんていうか、うちってみんなの家みたいにちゃんとしてないからさ、夜母さんいないことのほうが多いし、父さん働いてるけど給料安いし、生活水準が違うと、なんとなく話しづらいだろ」
「なるほどな」
「うん」
村神はもう寝てしまいそうだった。僕がタオルケットをかけてやろうと立ち上がると、
「でも、もっとしていいと思うぞ。いい家族なんだから」
と寝言のように言った。タオルケットを拾おうとする僕の手が一瞬止まった。村神が言うと、説得力が違う。
「……ちなみに僕が村神と友達になりたいと思ったのは、君が施設育ちだからじゃない、君が全国統一模試一番だからだ」
そう言って彼の腹にタオルケットをかけてやると村神はにやりと笑って
「なるほどな」
と言った。
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