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人間の尊厳に関すること
翌朝美味しそうな匂いで目が覚めるともう食卓に朝食が用意されていた。目玉焼きとベーコンとサラダと食パン。母親は起きてきた僕らに牛乳とコーヒーどちらがいいかと聞いた。僕は牛乳と答えて席についた。村神も「俺もそれで」と言って隣に座った。グラスを運んできた母親が聞く。
「あんたたち今日どうするの? 学校行くならお弁当作ってあげるわよ」
「学校行く。今日まで講座あるから」
「はーい。村神くんも?」
「行きます。でもいいんですか俺の分まで」
「もちろん。一人も二人も変わらんわ」
「すいません、ありがとうございます」
台所へ向かった母親に村神が頭を下げた。普段通りの村神に僕は安心した。居間のテレビには朝のニュースが流れていて、いつもと同じ穏やかな朝だった。
「村神、醤油とって」
村神からの返事がない。
「村神?」
村神の視線の先を追うと、テレビの中でフードを深く被った若者が大人に連れられて車に乗り込むところだった。誰かがスマホで撮ったみたいな映像だ。テレビのアナウンサーがニュースを読み上げる。
「昨日少年院を退所した小学生暴行致死事件の犯人について処遇に疑問を抱く声が多く挙げられ、非難の人たちが家庭裁判所や地方更生保護委員会に押しかけるという異例の事態になりました」
「えっ、これって………」
僕が村神を見ると、村神は青白い顔をしていた。テレビのコメンテーターが解説する。
「そもそも少年は事件当時まだ十三歳でしたから、刑事責任に問われないんですよね。もし十四歳以上であれば刑罰となりますから、社会感情というのも酌量軽減についての判断材料になりますが」
僕はテレビのチャンネルを変えた。わざとらしくなってしまったが、どう思われてもよかった。村神がひどい顔をしていたから。
それから村神は無言で朝食を食べた。
家を出て、二人きりになって僕がニュースについて触れようか触れまいか迷っていると、村神が口を開いた。
「人一人殺した奴がたったの二年で外に出てくる。どう思う?」
村神が自らあの事件について口にするのは初めてだった。僕は慎重に言葉を選んで自分の考えを言おうとした。けれど、正直にと思えば思うほど、
「分からない」
という言葉しか出なかった。村神が僕を見た。村神に見つめられた僕は困った。
「分からないよ、正直。怖いし不安だなって思うけど、でも僕は犯人を知らない。今の犯人のこと何も知らないから、何も言えない。彼が自分のしたことに向き合って、反省して、悔い改めて、もう二度と犯罪をせず、誰の権利も自由も奪わず、誰かのために生きていこうとするのなら、その機会を奪う権利は僕にはない。だってこの先の彼に救われる人がいないとは限らないだろ」
自分でもこんなのは詭弁だと分かっていた。理想論だ。
「だけど」
と僕は続けた。
「本当に彼がそんな風に生きていけるかどうか分からない。一度あんな罪を犯した人間が、二年で変われるのか。更正出来るのか、信じられない気持ちもある」
村神は眉をしかめ何か言いたげな目で僕を見た。
「言いたいことがあるなら、言ってよ」
「模範解答だな、流石優等生だ」
「君に言われると嫌味にしか聞こえないよ」
村神は道路のヒビ割れたアスファルト舗装を見ていた。僕らの黒い影が張り付いている。石垣の下に仰向けに落ちた蝉がいた。生きているのか死んでいるのか分からない。
「まるで社会の外側にいるみたいな言葉だ。許せないと思わないか? 殺された被害者の家族の気持ちになってみろよ。なぜ息子はもう二度と誰かのために生きることも愛することも許されないのに、それを奪った犯人にはその機会が与えられるんだ? おかしいと思わないか? 自分たちだって、愛する息子を殺されてから人生が狂った。人生を奪われたのに、なぜ奪った犯人には与えられるのか」
確かにそうだと僕は思った。晴れた朝で、太陽の日差しが眩しかった。あいかわらず蝉がうるさい。
「死んだ方がいいと思わないか」
僕の方に向けた顔は陰になって暗かった。光のない黒い瞳が僕を見つめる。白日の下、白いシャツと黒い陰のコントラストに目が眩んだ。
「死んだ方がいい人間もいる」
彼の言葉に僕は足を止めた。村神も止まった。
「それって、生まれない方が良かったってこと? そいつは生まれてくるべきじゃなかったってこと?」
そう問うた時、僕は一体どんな顔をしていたのだろう。きっとショックを受けたような、情けない顔をしていた。村神が僕を見て
「すまない」
と謝った。僕は謝られたことに無性に腹が立った。そしてわずかに傷つきもした。
「なんで謝るんだよ」
「気、遣わせた」
村神は前を向いてまた歩き出そうとする。僕は思わず先を行こうとする村神の腕を掴んだ。
「気なんか遣ってない!」
自分で思った以上に大きな声が出てしまった。突然の大声に驚いた村神が僕を振り返って戸惑っている。
「何怒ってるんだよ?」
「別に怒ってなんかないよ。ただ、嫌なんだ」
「何が」
何が? 僕は何がこんなに嫌なんだろう。村神が僕に遠慮しているのが? いや、違う。僕は村神に遠慮させてしまう自分が嫌なんだ。当たり障りのない「模範解答」しか言えなかった自分が。
「村神、僕はそうは思わないよ。生まれてこなければよかった存在なんてない。結果がどうであれ、生まれてしまった以上、意味があるんだ。だから彼が罪を犯してもなお生き続けることにも意味があるはずだ」
僕は真面目にそう思った。そして真面目にそう思う自分を、どこまでも普通だと感じた。村神といると、僕は自分の平凡さを思い知る。だけど今はそれが歯痒い。普通になりたいと思っていた普通が、こんなにも誰の役にも立たないなんて。
「お前はいいな」
村神が言った。僕は自分の足元を見た。その通りだと思った。僕は結局いつでもどこでもアウトサイダーなのだ。
「でもそこがお前の良いところだよ」
顔を上げると、村神が微笑んでいた。僕はほっとして急に泣きたくなった。
「村神だって、良いやつだ」
僕が言うと、村神は一瞬固まった後「俺は貴族だからな」と言って歩き出した。
駅のホームでベンチに座って電車を待っていると、唐突に村神が話し始めた。
「前にお前、俺にどうして貴族になったか聞いたよな」
「えっ、うん。聞いた。どうして?」
慌てて村神の横顔を見る。村神は両手に持ったスマホカバーを眺めている。布地で出来たスマホカバーはもうボロボロで紺色がところどころ白くなっていた。
「本当に、言うほどの理由じゃないんだ、すごいくだらないことで」
人差し指で鼻を掻いた。
「いいよ、話してくれるの!?」
「うーん……、お前絶対に笑うなよ?」
「笑うわけない」
「いや別に、笑ってくれていい、笑ってもらった方がいいな」
珍しく歯切れの悪い村神は頭を撫でたり腕を組んだり落ち着かなかった。
「いいから話してよ」
じっと見つめると村神は軽く息をついて話し始めた。
「あの事件が起きた後、あいつがしたことが他人事だと思えなくて、俺はすごい不安になった。自分が怖くなった。あいつと俺は、境遇が似てたから」
「境遇」
「そう。明の方が施設に来たのはずっと遅かったけど、初めて明を見たとき、自分がいると思った。親に蔑ろにされて、誰にも必要とされなくて、生きてる意味が分からなくて、この先どうなりたいとか何がしたいとかも分からない自分。俺って自分がないんだ。何をしたらいいのかも分からなくて、好きなことも見つけられなくて、他人のことも自分のことも好きになれない。明の目を見た時、まるで自分と向かい合ってるみたいだと思った。俺は最初から明のことが怖かった」
ボロボロのスマホケースを握りしめる村神の手が白くなっていた。僕は「うん」と相槌を打った。村神は続けた。
「あいつは最初から嫌な奴だった。我儘で、我慢が出来なくて、些細なことでキレて周りに当たり散らした。施設にいる時は職員さんがあいつの相手をしていたから俺たちは離れて安全なところからあいつが暴れているのを眺めてた」
電車が来た。だけど僕も村神も立ち上がろうとしなかった。
「……あいつが暴れてるのを見るたびに、自分の心が軽くなっていくのに気づいた。自分よりもどうしようもない奴を見て自分はまだましだと安心してたのか、それとも俺の中にも暴れ回りたいとか思いっきりキレたいっていう欲求があって、あいつが暴れて大人が困るのを見て満足していたのか、どっちか分からない」
電車のドアが閉まった。僕らは一歩も動かなかった。目の前を過ぎていく電車をただ見ていた。
「多分どっちもだったんだと思う」
そこで村神はふーと深く息を吐いた。僕は人生の中でこれほど真剣に人の話を聞いたことはない。じっと黙って、話の続きを待っていた。
「……あの事件が起きた時、俺はあいつのことが怖くなったんじゃなくて、自分が怖くなった。まるで自分がしでかしたことみたいに感じた。それと同時に、本当にしてしまったらどうしようと思った」
村神の手が震えていた。顔は蒼白で、朝ニュースを見た時と同じ色をしている。彼が普段心の奥底に沈めて蓋をし、見ないようにしていたものを今僕の前で開けてくれている。僕は唾を飲んだ。
「明の書いてた日記、知ってるか? 俺には何もない……ってやつ」
僕は頷いた。
「俺は最強だってやつだろ」
「そう。あれさ、まんま俺のことなんだよな。俺には何もない。親にも捨てられた。守ってくれる人もいない。守るべきものもない。希望もなく、未来もない……。あれをテレビで見た時、生きた心地がしなかった。背筋が凍りつくような、氷塊が浮かぶ海に落ちたような、そんな気持ちだったよ。その時分かったんだ。どうして明のことがあんなに嫌いだったのか。どうして明を見た時自分がいると思ったのか」
村神は腰を曲げ両手で顔を覆った。
「……明はもう一人の俺なんだ。いつ俺がああなっていてもおかしくなかった。俺、怖くてさ」
僕は「君は絶対にそんなことはしない!」と叫びそうになるのを何とか我慢した。今は村神が僕に一生懸命伝えようとしてくれているのだから、僕は一生懸命聞かなくてはいけない。村神は顔を上げた。
「森口さんに言ったんだ。夜、森口さんが夜勤の時に職員室に訪ねて行って、泣きながら、自分が明みたいに誰かを傷つけたり何かを壊したり何もかもを台無しにしそうで怖いって。俺も明と同じ、最強の少年なんだって」
「そしたら森口さんはなんて?」
「森口さんは俺にこう言った。世の中には、親から虐待されたり満足に教育が受けられなかったり、必要な時に必要な支援が受けられなくて生きづらさを抱えたままの人が沢山いる。そういう人の大多数は社会に出ても適応できずに苦しんでいる。財産もなく、家族もいなくて、健康や健常からも外れた場所にいて、何の不自由も不満もなく生きている人からしたらもうこれ以上何も失うものがないと思われるような人間は沢山いる。だけどそういう人が全員世の中を恨んでいるかというとそんなことはない。寝たきりの人がみんな人生に絶望して走り回れる人間を恨むわけじゃないのと同じように。余命幾何もないと宣告された人が必ずやけになって犯罪を起こすわけじゃないだろって。だったら、その違いは何か。分かるかと。俺は首を振った。すると森口さんが言った。それは人間の尊厳に関することなんだって。つまり、気高さを持っているか持っていないかの違いなんだって。だから俺は必死に考えたのさ。気高い人間になろうってな」
村神は首を上げて空を見上げた。さっきよりは顔色が良くなった。
「だから、貴族に?」
「そう、くだらないだろ、本当にしょうもない。まぁ中学生が考えたことだ、笑ってくれ」
僕は全然笑えなかった。そうやって自分は貴族だからと言い聞かせて気高くあろうとし続けていた彼を、誰が愚かだと言えるだろう。僕は二年前の彼が愛しかった。彼は「最強の少年」から貴族になった。必死で。
村神は自分を飲みこもうとする大きな闇とずっと一人で戦っていたんだ。
「電車、来たぞ、行こう。一限サボらせちゃったな、悪い」
そう言って村神は立ち上がった。僕は遅刻しても決してサボろうとはしない村神がつくづく律儀だなと思いながら、彼の後姿を追いかけて電車に飛び乗った。
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