〖Reunion〗

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〖Reunion〗

 昨月に付き合っていた彼女こと、レイチェルと別れたルトガーにとって、自分が生業としている行為、つまり、人の記憶の保管と消去という仕事は、今のルトガーの心理状態にとっては難儀なシロモノであった。  他人の楽しい記憶を探るのは当然のこと、悲しい記憶や邪(よこしま)な記憶を覗く事さえ、ルトガーにとっては煩わしかった。単純に相手の頭の中を見入る事が、失恋間もないルトガーにとってはどうにも苦々しいのである。  しかし、一方でルトガーは思う事がある。  自ら失恋としてその傷心を受け止めているのか? という奇妙な疑問が脳裏に引っかかっていた。  いや、兎に角、そんな抽象的な自問は考えるな。今は仕事の時間だ、集中しろ。  そのようにルトガーは、内心、自戒して再び襟を正した。  ルトガーの仕事は『記憶管理業』と呼ばれ、一応は国家資格の必要な職を食い扶持としている。  記憶管理業。  それは人の記憶を操作する仕事を指し、その操作とは主に相手の記憶を〔保管〕する事と[消去]する作業を示す。 〔保管〕する事は相手、ここではルトガーからすればあくまで仕事であるので、その相手とはお客の意味になるが、そのお客の頭の中から、楽しかった記憶や悲しかった記憶を[記憶抽出管理マシーン]によってビッグデータ・ダイレクト・システムを備えているパソコンを使い記憶データを保存。そのデータを<メモリー・バンク>という名称でデバイス化する。つまり、作業工程は相手の記憶を抜き取り、コンピュータに入れ込むという、ダウンロードのようなものである。 そして、その記憶をその他の人間、つまり、《仮想感情》を望む他者である顧客に提供して追体験をさせるという仕組み。詮ずる所、記憶の共有が出来るということ。そのようなサービスを施し料金を頂くというシステム。そして、その記憶を複製したデバイスを使用して、宇宙船の冷凍睡眠装置のようなカプセル型のケースに人を入れて、言わば客は他者が思い起こした記憶をベースにして、追憶旅行を楽しむ。  人に限らず生き物というのは、心地良さを求めるもの。いや、それこそ人々の愉快の嗜好は違うので、喜怒哀楽の全てをその折々に感じてみたいもの。だからこそあくまでフラストレーションのはけ口でも良いから、他人の感情でも構わないとして、その時の自分に合った情緒を味わいたくなるのもまた一理あり。それを可能にしたのが[記憶抽出管理マシーン]であり』、〈記憶管理士〉という資格を持つ、記憶管理業という仕事を行う人間。  その内の一人がルトガーだった。  一方で、〔消去〕という作業は、単純に相手の拭い去りたい記憶などを消すこと。所謂、忘れたい記憶や、それこそ過去のトラウマなど。そのような記憶の負荷を取り除く事自体で商売は成立する。精神科や診療内科での心のケアによる医療行為の等価としての認識に近いものがある。  ただ記憶の〔消去〕の方が〔保管〕よりも作業リスクが高い。何故なら〔消去〕はあくまで部分的な記憶しか消してはならないので、誤ってしまうと、広範囲な過去の記憶、それこそ自分の名前や出身、住所や電話番号、言語や文字、仕事や趣味や日常の動作、それこそ今まで人生で培ってきた人間関係から道徳や倫理までをもデリートしてしまう危険性を孕んでいる。 〔保管〕の方は言わば人の記憶をコピーするだけなので、言い例えるなら記憶を傷つける事はなく、相手の心身ともに障害が残る事もない。だが、それでも[記憶抽出管理マシーン]の操作に不手際があれば、コンピュータに入れたデータ自体がエラーしてしまうトラブルが起こり、<メモリー・バンク>の作成が失敗する事も多々あり、言ってしまえば不良品として使い物にならないので、ただの作業のヤリ損の赤字というケースも出てくる。  どちらにしても[記憶抽出管理マシーン]を扱う〈記憶管理士〉の腕が重要である事は間違いない。  そして、ルトガーは〈記憶管理士〉としての技量は若くして玄人の領域に達していた。事実、開業記憶管理士として一人前に生計を立てている事がその証左である。  だが、この『記憶管理業』自体が新規の業種でもあり、まだまだ差別的というか怪訝な商売として見られる傾向にある。所謂、イロモノ扱い。一方で現代資本社会における自由主義的な競争性の薄いブルーオーシャンな職域なので、ライバル会社的な存在は少なく寡占状態とも言える。そのような要因もあり、需要や供給ともに健全に成立している部分がアドバンテージ。それなので現時点では好物件の職と認識する方が良いのかも知れない。  ただ新しいビジネスかつ、今後伸びしろを感じさせる分野の職種ゆえに、まだ企業インフラやコンプライアンス、法整備の面では不完全な事態が見受けられる。そのような未知数高い成長期にある業種であるから、ルトガーの元へ訪れる客層も画一的ではなく多種多様である。一般人にはない特殊な記憶を持っている者など。  例えばたった今やって来た客もその部類に入るかも知れない、とルトガーは直観した。  フードを深く被り顔全面が判然としない身なり。だが、そのがっしりとした恰幅からすぐに成人男性と分かる。実際に早々と相手は男臭さ満点の野太い低い声でルトガーに尋ねてきた。 「予約制?」 「え、いや、当店では予約制は採用しておらず、直接の来客で対応させて頂いてます」 「つーか、ここは記憶の売買屋で間違いないんだよな?」 「ええと、記憶の売買屋という言い方は正しくありませんが、お客様から記憶を提供してもらったり、後は記憶の消去などの施術を行い、金銭の授受を行っている店ではあります。ちなみに公称ではあるんですが、私の受け持つ店は仮の扱いとして、〘公式認可記憶管理業務店舗409号支部〙という名前がありまして……」 「ああ、もうそんな話は分かってるんだよ。兎に角、<メモリー・バンク>関連の仕事だろ?」  面倒臭そうに男はルトガーの言葉を遮って言うと、フード付きのジャケットを脱いで、側にあったソファに投げ捨てた。ジャケットを取って顕わになった男の人相は短髪に無精ひげ、いかにもいかつそうな体格に似合う鋭い三白眼のそれ。  男の姿を一見してルトガーは即座に、これはレア・ケースの客が来たな、と期待と今後の展開で面倒事にならないようにしようと気構えた。  一方で、<メモリー・バンク>関連の仕事、と男が言った台詞から、何やら『記憶管理業』に小慣れている印象もルトガーは受けた。 「はい。左様でございます」  ルトガーが懇切丁寧に返事をすると、男は勝手に室内にあるコンピュータに囲まれているカプセル型のベッドに横たわって、 「記憶の〔保管〕の方、つまり、記憶を売りたいんだが、値段は他の店とかと一律じゃないんだよな?」 「あ、はい、そうですね。その店の機械の設備や施術方法によっても異なりますが、記憶の〔保管〕でありますと概ね一番価格に反映されるのはお客様の記憶の内容によりますね。〔消去〕の方はさほどの値段の変動はないと思いますが、〈記憶管理士〉の熟練度などが深く関わってきまして……」 「分かった、分かった。俺は〔保管〕の方だ。じゃあ、とっとと俺の記憶を探ってくれ。売りの箇所は俺が犯した殺人の現場の記憶」 「殺人? ですか」  殺人の記憶。  そのようなワードを聞かされてもルトガーは動じる事はない。職業柄、常に平静さを保つのをモットーとしている記憶管理士。それは相手に対して脳内をイジる事による不安をかけさせないための配慮でもあるが、ルトガー自身の性格上、あまり感情は素でも出さない。ただ、やはりレア・ケースの記憶だったか、と無表情を決め込みつつ得心してはいた。  自らが犯した殺人。いや、殺人に限らず犯罪の記憶はなかなかの人気コンテンツ。怖いもの見たさの類に近いかも知れないが、一般人として生きてきた人間にとっては、実に刺激的な追体験となりうる。言うなれば犯罪行為云々ではなく、ただただ過激な記憶自体を好む人間も多々いるということ。何も潔白な喜怒哀楽に係る類の記憶ばかりを望む客がメインではなく、時に毒の含んだ異常嗜癖にも近い記憶を好むニッチな客層もいる。そして、そのようなコアな客ほど金を出してくれるもの。  それに実際にルトガーが相手した記憶の〔保管〕の客の中で、殺人や強盗などの記憶を扱った事例はある。ただしその〔保管〕の受け入れには、その罪を贖罪したか、つまり、刑期を終え出所して一般社会に復帰しているかの確認を、ビッグデータ・ダイレクト・システムを使って調べる必要がある。記憶管理法の法整備は万全ではないとはいえ、犯罪者との記憶売買契約は認めておらず、ヘタをしたら相手が凶悪な脱走犯という可能性もある。その時は当局に通報。だが、公式に懲役を終え平和裡に社会復帰をしていれば、その犯した殺人行為は一記憶として、記憶管理法の〔保管〕に適応される。  犯罪行為の記憶を儲けに代えるなんて不謹慎である、という世論の声は少なからずあるものの、今の時点では未発達にして未熟な業種ゆえに、その答えは公式には出ていないでいる。  だからこそ法整備が曖昧な今のうちに、一部のあざとい元・受刑者などは、記憶管理業に目をつけ様々な店に乗り込み、自らの苛烈な記憶を売りさばく、という行為に出る。そのような輩を、廻し、もしくは、巡り、と記憶管理業界ではスラングで呼んでいるが、ルトガーもどうにも店内での慣れた男の言動や行動から、それらの連中と同じであろうと推し量った。 「それではパーソナル・カードの提示をお願い……」  既に横臥している男に向かってルトガーは話しかけたが、これもまた男はそれを遮って素早くパーソナル・カードと呼ばれる個人情報が内蔵されている電子カードを差し出して、 「コイツで照会して俺の身分を確かめて、それに殺人なんていう記憶だから俺がカタギの人間かも調べるためにコンピュータを使うんだろ。大丈夫だよ、俺は。ちゃんと服役して真っ当な人間になってんだから。まあ、とっととやっちまってくれ。それに先に記憶管理法の何やらかんやらの同意契約書も書いちまうから渡せ。もう、それ以上余計な説明もいらないから」 「は、はあ」  面倒臭そうに男はルトガーに喋ると、ルトガーは言われた通り契約書を男に渡すと諸処の項目に男は適当にサインをし始めた。ルトガーはその間にパーソナル・カードを用いてビッグデータ・ダイレクト・システムを使い男の情報を調査した。そこでは出身地から生年月日はもちろん、一般的な情報以外にも職歴やら物品の購買履歴やら旅行履歴やら、そして、犯罪履歴などの特殊的な個人データも記されている。はたから見れば、その個人の来歴全部を、1ミリほどの薄さのカード一枚が網羅していると言っても過言ではない。今までの人生が凝縮されているとも。  ルトガーはそれらのデータを確認すると、特に問題はないな、と判断し、 「はい。データを照会した所、特に記憶の〔保管〕に瑕疵があるような事項は……」 「だから、分かってるって、ほら」  そう言って男はルトガーに突き出すように書き終えた契約書を渡し、ルトガーもその内容を確認すると男にパーソナル・カードを返した。 「じゃあ、後はよろしく」  男はその一言をしてカプセルの中で目を瞑り、それ以上は喋らなかった。  ルトガーは、やれやれ慣れ切って自分ペースだよ、と半ば呆れながらも、扱いやすい客として見るなら、ルトガーからすれば施術はやりやすかった。  麻酔で眠らせ、記憶プラグと呼ばれる電極装置を頭皮の上から刺して、記憶の確認作業をする。大雑把に言えばそれだけの過程で〔保管〕は終了。ただし男のリクエストした、殺人の記憶、を探し出し、その記憶の映像を査定と追認するのも仕事の一つ。  まだ眠っている男を横にルトガーはその殺人の現場の記憶をコンピュータのモニターから覗く。そこで繰り広げられているのは、無残にも男女を殺害し、レイチェルにはその遺体をバラバラにする映像。その殺人に至る詳細の経緯までは調査しないが、 「これはちょっと過激すぎるな。記憶抽出後に〈メモリー・バンク〉の記憶データを加工しないと表向きには出せないかな」  とルトガーは特にその陰惨な映像に目を背ける事もなく、素面のまま一人言を呟くと、男の蘇生を開始した。その最中にコンピュータのプリンタから様々なデータの紙がプリント・アウトしてきた。  男に装着していた全てのプラグやコードをルトガーは取り終えると、男は目覚めの開口一番に、 「どうだったよ。幾らで買う?」  とルトガーに問い、ルトガーはプリント・アウトした用紙を男に提示した。男はニヤリと口角を上げると、 「OK]  ただ一言そう答えた。  ルトガーは深々とお辞儀をして、 「ありがとうございます」  と素面で答えてカプセルに入っている男に手を差し出して起こした。  男は起き上がると余計な動きを見せず、ルトガーから〔保管〕の報償金を受け取ると、すぐにジャケットを手に取り袖を通して店を出ようとした。  男は帰り際、 「いや、しかし、記憶を探る機械みたいのができちまったせいで、悪さしてもすぐにバレて誤魔化しが効かなくなっちまったから、とんでもねえ発明してくれたもんだぜって、昔は恨めしく思ってはいたんだが、へっへっへっ、何ていうか、そいつが結局は手前のやっちまった悪業を金にする打ち出の小槌になるなんてな、良い世の中になったもんだぜ。記憶を売る度につくづく思うね。そう、こういう仕事のあるお陰で楽して食っていける。言っちまえば悪人が得をするってのかな。ワルに優しい福利厚生社会ってか。笑いが止まらねえよ。はっはっはっはっ!」  と漏らして高笑いしながら去って行った。ルトガーは男が店から出て行った後に、肩を落としながら、 「全くその通りだな。僕もそれに加担して、ヤクザな仕事を従事しているに過ぎない」  そんな自虐的な言葉を囁いた。  <記憶管理士>と言うと一聴すると最先端的な響きで聞こえは良いが、まだまだ世間には馴染みがない職業。だが、その資格を得る為には、工学の知識はもちろん、医学や生物学の分野にも精通していないと取得は困難。果たして専門的かつ高度な国家資格であるから、知識的、学歴的に優れている人間でないと、そうそうには選ばれない。言わば、先生、と呼ばれるような人から敬われるような仕事である。  記憶管理業とは、記憶屋、のような用語を使い、昔ながらにSF小説のネタとしてはよくある話だったが、それが実現した。かつてラジオや電話やテレビなどの存在が、それが出現する前に予期されていたように、別段、<記憶管理士>の仕事もその流れと変わらない……とルトガーは認識しており、必然的に生まれたもので、珍しい職業ではなく、出現するべくして出現したとも捉えていた。  だが、まだ、新興、の手合いもあり、少なからずカルト色の強い偏見が、特に医療界などから批判を受けている。記憶管理、という職業の性質上、脳科学との接近は不可避。つまり、脳外科的医療や精神医療の分野からすれば、[記憶抽出管理マシーン]などの装置を使った仕事は、まだまだ信用に足りうるものではないと見られ、医学界からはまだキワモノの職業として蔑視されている傾向がある。  そのような具合なのでルトガーは、自分の職業を他人に紹介する時は、公務員、として呼称している。<記憶管理士>と名乗ると、良くても世間知のない仕事として理解されず、苦笑いしながら挨拶され、悪かったらその仕事内容を知った上で、白眼視される恐れがあるからだ。  そこには、実際には今の時点では世間での記憶管理業の大きな人的トラブルは起きていないのだが、医局、特に精神科の医師連としてはあまりに<記憶管理士>が精神療法として成果をあげられてしまうと、自らの医学的精神医療や心療内科としての存在が、科学技術によって駆逐されてしまう、という危惧も少なからずあり、医療分野の面々から謂れない反撥も含まれている。  そのような状況にルトガーは面白くもない部分を感じているが、先の客のような人間を相手にしていると、自分も何やら悪徳の片棒を担いでいるみたいだ、と自身を卑下してしまう思いも生まれる。  そもそも人の記憶に携わる事自体が、エラく人智を超えた所作であり、道徳や倫理に反し、神に背くような行為に感じてならない。別に僕は宗教など信じちゃいないが、相手の心を覗き見するという振る舞いは、プライバシーも人間の尊重も無視するような、個としての人間を否定する活動ではないか。テレパス的な超能力を持って人が、相手が考えている事を知ってみたい、相手が自分をどう思っているか知ってみたい、という気持ちは分からないでもない。だが、相手の心こそが知り得ないから、人間としての魅力を感じるんじゃないのか? いや、そうは言ってもやはり、多分の人間は他人の事をより知りたいが故に、相手が何を考えているかすらも、具体的に覚えたいのうだろう。思えば僕だって心理学への興味から始まり、人間の脳やら意識や記憶なんかに関心があったからこの職に進んだんだ。ただ、いざ本職として人の脳内を覗き込んでみると、人間の得体の知れないリビドーやエゴが蠢いていて、予想以上に酷い個人のプリミティブな本心を垣間見てしまって、落胆してしまった。人間不信、とはまた違うが、結局は自分自身も、リアルな人間、なんだなと痛感した。まあ、そんな感情は思わぬ副産物であって、プロの<記憶管理士>としてはアマちゃんな考えだ。一般人の精神の覗き見趣味と、<記憶管理士>の仕事としてのそれは違う。ただ、この仕事を始めてからだろうか。徐々に相手の感情はおろか、自分の感情にも鈍くなり始め、何というか、意欲とか喜怒哀楽、ストレートに心が無くなっていくというか……仕事として相手の記憶を割り切って扱っていくうちに、あまりにも自分の感情が機械的になってしまったとでも言うのだろうか。そうだ。別れたレイチェルに対してだって、俺は果たしてどんな想いがあったんだ?  と、ルトガーがそんな思索に更けている時、店のドアをノックする音が聞こえた。ルトガーはすぐに<記憶管理士>モードの職業状態の頭に切り換えて、入室を促した。 「どうぞ」 「失礼します」  入ってきたのは昨月までルトガーが付き合っていた女性であるレイチェルだった。  ルトガーは冷静沈着にして動揺してはいけない職業である、自分の仕事の立場も忘れて半ば呆然として、 「レイチェル?」 「え、ルトガー?」  互いに見合う二人。だが、すぐにルトガーは気を取り直し、 「やはりレイチェルか。でもどうして?」 「それはこっちの台詞よ。私は記憶管理の仕事に用があってきたのよ」 「僕は記憶管理業に携わる<記憶管理士>だよ」 「え? だって公務員……ああ、そういう事ね。確かに公務員には変わりないものね」  レイチェルはすぐにルトガーの事情と状況を察知して答えた。一方、ルトガーも職業の上では公務員以上の情報以外を、他者と同様にレイチェルにも教えていなかった。 「レイチェルは何をしにここへ……いや、そうか、そうだよな。ただの偶然か。記憶の〔保管〕か〔消去〕をしに来たんだよな」 「…………」  レイチェルは無言だった。  一方で、瞬間ではあったが、ヨリを戻そうとレイチェルがやって来た、と勘違いした自分にルトガーは忸怩たる思いを感じた。胸襟、仕事の一環である、と正す。レイチェルはお客以外の何者でもない。 そして、この邂逅はひどく意地悪な偶然の産物だと。 「それではこちらへどうぞ」  ルトガーが丁寧に着席を促すとレイチェルはやや放心した顔で椅子に座った。ルトガーはそんなレイチェルの表情の変化に気づく事もなく話を始める。 「お客様の……」 「ち、ちょっと待ってよ、ルトガー。いくら私がお客だからって、そんなあからさまに他人行儀に応待するのは変じゃない?」 「あ、ごめん、ごめん。つい仕事モードに入っちゃってさ」 「それとも別れたばかりの女が、奇遇にも突然現れたから動揺してるのかな?」  悪戯っぽく問いかけるレイチェルに対して、ルトガーは苦笑しながら即答する。 「はは、まさか」 「……そう」  何やらレイチェルが俯きかげんになり、顔が暗くなった印象をルトガーは受けたが、滔々と記憶管理法のマニュアル通りの説明をルトガーは続けた。 「それでお客様は……じゃなくて、レイチェルは記憶の〔保管〕と〔消去〕のどちらを選ぶんだい?」 「ほ……あ、〔消去〕の方で」 「〔消去〕でございま……ね。そうすると記憶の箇所をアバウトで良いので教えてほしいんだけど」 「別れた恋人との思い出を消したいの。ルトガーという人と付き合っていた期間の思い出だけを」 「…………」 「分かる?」 「え、ああ、はい……いや、そうなんですね……じゃなくて……うん。ただ恋愛コンテンツって〔保管〕にしたらその内容が幸せな恋愛成就や、逆に失恋的な経験知でも、なかなか人気があるから高く買い取れると思うよ。〔保管〕した後に〔消去〕すれば、〔消去〕での施術費も浮くはずなんだけど……」 「イイの。思い出だけを消したいの。二人の思い出を残したくなんかない。他人に覗かれたくなんかない」  語調は強く早めだが、決して荒らげる声ではない、レイチェルの素早い返しの言葉。ルトガーもそれ以上は追及する事もなく、 「分かった。余計な事を言って悪かったよ。ただし記憶の〔消去〕となると、完全にその記憶の箇所を削除するので、二度と記憶の復元は出来ないよ」 「分かったわ」 「それに記憶の〔消去〕は〔保管〕よりも少しリスキーな作業なので、他の記憶にも影響を及ぼす恐れも、万が一とはいえあるから」 「大丈夫。あなたを信じてるから」 「…………」 「お願い、するわ」  ルトガーは一つ深呼吸をすると、パーソナル・カードを受け取り、同意書を含む幾つかの〔消去〕に関わる書類をレイチェルに手渡し記入させた。レイチェルが各種書類を書いている際にルトガーは思わずレイチェルのパーソナル・カードに保存されているデータ、つまり、コンピュータのモニターに映し出されている、彼女の人生の記録に見入ってしまった。 改めて知る彼女の履歴、一方で初めて知るレイチェルの情報もあった。だが、すぐに顧客の記憶に必要以上に介在する事は、記憶管理法に抵触している事を思い出し、早々とパーソナル・カードをレイチェルに返した。レイチェルも書類一覧の記入を終え、ルトガーに返す。ルトガーはそれらの書類を一瞥すると、 「うん、大丈夫。問題ないよ。〔消去〕の記憶処理作業の条件に問題ない。じゃあ、このカプセル型のベッドに寝ちゃってくれるかな」  レイチェルはルトガーに言われるがままにベッドの中に入り込み寝そべった。そして、レイチェルは仰向けになり、両腕を胸に重ねながらルトガーに語り始めた。 「これから、どういう風に、その、手術、じゃなくて施術かな。それってどういう流れで行われていくの?」 「心配ないよ。記憶の〔消去〕作業の前にレイチェルには眠ってもらうから、その間は痛みも苦しみもない。脳を探ると言っても自覚はないはずだよ。一度寝たら後は起きるだけ、という感じかな。ただその記憶が消えただけしか、施術前後の変化はないよ」 「つまり、私の中での私とルトガーとの思い出が無くなるということ」 「まあ、そうだね」 「付き合っていた頃の思い出だけではなく、あなた自身その存在全てが私の中から消えるってこと?」 「言ってみれば、君が目を覚めたら、君は僕を知らない。君にとって完全な他人に僕はなっているよ」 「……そう、か」 「それじゃ、眠りについてもらうよ」 「……う、うん」  レイチェルに対してルトガーが麻酔を施そうとしている最中にレイチェルは言った。 「これが二人の、私があなたを知っている仲の、最後の会話になるのね」 「そうだね」 「私があなたを好きだった、あなたの恋人だった想いも消える」 「ああ」 「ひどい女だと思う? 恋人との思い出を、機械を使って消しちゃうなんて」 「いや」 「あのね、私にとってあなたとの思い出が切なすぎて、痛くて、悲しくて、辛すぎるのよ。あんなに楽しくて、あんなにルトガーが好きだった思い出をどうしても忘れられないのよ。だから次の一歩が踏み出せないままでいるの、今の私は。それだから思い出の〔消去〕に頼るしかないって……」 「…………」 「だけど、何で私たち別れたのかな?」 「分からない」 「私にも分からない。ただ、あなたは最後まであなた自身の心を、私に見せてくれなかったと思うの。優しかったし、笑顔も絶やさなかった。だけど、いつもあなたは……ごめんなさい。変な事を言っちゃって」 「いいんだ」 「…………」 「じゃあ、そろそろ施術を開始するよ」 「眠るのね」 「ああ」 「さようなら、ルトガー」 「…………」  レイチェルが目を閉じると、ルトガーは手際良く、記憶の〔消去〕の作業に入った。ルトガーは[記憶抽出管理マシーン]を使ってレイチェルの記憶を探索する。それはルトガー自身も知りうる、レイチェルとの思い出の1ページの連なり。<記憶管理士>としての腕が確かなルトガーなら、ピンポイントに指定された記憶に照準を当て〔消去〕するのは容易だが、ここで思わぬ考えがルトガーによぎった。  記憶を捏造、もしくは改竄してはみないか。  レイチェルと別れた記憶自体は当然のこと、レイチェルの感情に再びルトガー自身への好意を備え付け、もう一度恋人として付き合う。言わば、恋人状態に戻すための補正ををかけるということ。記憶を取り扱う仕事故に、記憶を操作する事は可能であり、それ自体はルトガーの手にかかれば容易に出来る。  しかし、勿論、そのような恣意的行為は記憶管理法に背いている。一方、ルトガーの脳裏に微かによぎるそのような違背(いはい)的な思い。  そして、僅かな期待。  もう一度二人やり直せるのではないか、と。 「何を考えているんだ、僕は」  一瞬の気の迷い。  ルトガーはすぐに自分の脳内をそう整理して、記憶の〔消去〕の作業に取り掛かった。コンピュータのモニターの画面が早送りして、レイチェルの中にあるルトガーとの記憶が映像として現れる。手際良く、何ら表情を変えないでルトガーは〔消去〕の過程を進める。  そして、二人の思い出の記憶は消えた。 「何か、スゴくスッキリした感じです。何だろう、この感覚? 背負っていた重たいモノがなくなったって感じかな」  無邪気に笑顔で喋るレイチェル。 「そうですか。それは良かった」  ルトガーも微笑して答える。  一方でレイチェルは上気しながら言葉も絶やさず、 「ねえ、私ってどんな記憶を消したんですか? ってそれは秘匿でしたっけ。教える事は出来ないんですよね」 「はい、残念ながら」 「うわあ、自分で〔消去〕してってお願いしたのにミステリアスですよねえ」 「はは」 「でも、本当に心が軽くなりました。これから新しい何かが出来そうって気分です。ありがとうございました、先生」 そんな一言をレイチェルは少女のように相好を崩して快活に告げると、スキップがてら鼻歌交じりに店から出て行こうとした。  その時、 「さようなら」  とルトガーは呟いた。 「え? 先生……何か言いました」  レイチェルはドア・ノブに手を掛けたまま振り向きがてらにルトガーに尋ねた。 「いえ、ありがとうございました」  そうルトガーは言い直すと、レイチェルは満面の笑顔になって、 「こちらこそありがとうございました!」  覇気のある張った声で返事してルトガーの元から去って行った。  沈黙と静寂の区別がつかない一室になった、一人、ルトガーのいるこの部屋。  ルトガーはしばらく佇んでいると、 「きっと僕の心はとうの昔に消えてしまったのだろう」  そう一人言をして椅子に深々と腰かけた。  僕の心は死んじまっていたんだな。だから、彼女の記憶、いや、思い出を、そう、僕への想いを取り戻した所で、結果は再び同じだったはずさ。  不意に諧謔めいた諦念に襲われるルトガー。  だが、さようなら、と最後にレイチェルに告げられた自分に、僅かながらの機微を覚え、何やら遠い昔に忘れた、何処か小さな一片の感情を思い出せた気がした。  それはどうにも懐かしい感情。  さようなら。  その一言が。                            了
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